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魔王討伐から凱旋した幼馴染みの勇者に捨てられた私のその後の話
著者:海野宵人 イラスト:飛沫かもめ
プロローグ
魔王を倒した勇者ライナスは、私の幼馴染みだ。
共に将来を誓い合った仲でもある。
確かにそのはずだった─のだけれど。
一年近くに及ぶ魔王討伐から凱旋してきたライナスは、私の知っている彼とはまったくの別人になってしまっていた。
実を言うと彼はこれまでに二回、まるで別人のように人が変わったことがある。
けれども三回目の今度こそは、ついに本当に別人になってしまったのだった。
彼が変わってしまったらしいことは、実際に会う前に新聞記事から知っていた。
魔王討伐に聖女として参加していらしたグロリアーナ王女と婚約の話が進められている、という記事だ。
とはいえ新聞記事などというものは、言ってみれば他人からの伝聞にすぎない。だから本人の口から聞くまでは、鵜呑みにはしないようにしていた。
けれども最終的に、本人から直接言われちゃったわけだ。
「フィミア、ごめん。旅の間に姫に命を救われて、それで……」
自分の口から伝えようとする姿勢は評価しよう。でも、お供が多すぎ。証人と思えばいいんだろうけど。
やつが別人になってしまったのなら、私も別に未練はない。
だから私は、心からの祝福をした。
「謝らなくていいから。どうぞ王女さまとお幸せに」
ただし「元気でね」とは言えなかった。心にもないことは、言えないたちなのだ。
私はライナスの左手の薬指に、ちらりと視線を向けた。果たしてそこに、指輪はなかった。魔王討伐に出立する前に私が渡した、手作りの素朴なビーズ細工の指輪。以前のままのライナスならば、この指輪をしていないなんてありえない。
ああ、本当に別人になってしまったのだな、と私は虚無感に襲われた。
ライナスたちの一行が帰っていくその後ろ姿を、完全に見えなくなるまで私はじっと家の前で見送った。
こんなことになるのじゃないかと思って、前から少しずつ準備しておいてよかった。
急がなくちゃ。旅支度を。
* * *
ライナスは私より一歳上で、ご領主さまの次男だ。このあたり一帯はスペンス伯爵領といい、ご領主さまが治めている。
ご領主さまは貴族だけど、たぶん裕福なほうではない。暮らしぶりは、貴族にしては非常に慎ましかった。でも領民の話をよく聞いてくださるご領主さまは、領内ではとても慕われている。
ライナスには五歳上のお兄さまがいる。ご領主さま似の優秀なかただと評判だ。
お兄さまは背が高くがっしりとした体つきで、男らしい風貌。なのにいつもにこやかで人懐こいからか、いかつい印象はあまりない。誰にでも親切で優しく、だから老若男女を問わず人気があり、特に若い女の子たちはみんな夢中みたいだった。
ライナスも背は高い。
ただし顔立ちはお兄さまとはまったく違い、お人形みたいにきれいな顔をしていた。
家柄がよく背が高くて美形だというその条件だけ聞けば、いかにも女の子にもてはやされそうなものなのだが、現実は無情だ。幼い頃のライナスは、男の子からも女の子からもいじめられる存在だった。
理由はいくつかあるけれど、まず足が遅い。運動神経が鈍いのだ。
背が高いくせに、走るともたつくし、すぐ転ぶ。その上、泣き虫ときた。
子どもの遊びなんて、運動神経がすべてだ。もたもたとしか走れず、簡単に転んでは泣くライナスは、誰からも馬鹿にされていた。
鈍くさいくせに短気なのも、馬鹿にされる理由のひとつだった。
足の遅いことをからかわれると、すぐにカッとなって手を振り上げる。しかし鈍くさいので、相手が避ければ当たらない。追いかけようにも、足が遅いので追いつけない。しかも転んで、そして泣く。
手出しできないと口で攻撃しようとするのも、馬鹿にされた。
ライナスは、興奮すると言葉が詰まる癖がある。特にカッとなって言い返そうとするときが最悪。それを真似してからかわれれば、さらに頭に血を上らせていた。
そして手を振り上げ─、以下省略。
もう、目も当てられない。
いくら顔立ちがきれいだって、しょっちゅう泣いて歪ませていたら台なしだ。むしろ「女みたいな顔」と、からかいの種になるだけで、ちっともよいことはなかった。
ご領主さまは下の息子が村の子どもたちの嘲笑の的になっていることは、たぶんご存じだった。でも「子どものけんかだから」とおっしゃって、いじめっ子たちの親をとがめるようなことはなさらなかった。
そんなふうに情けなくて、どうしようもなくみっともないライナスだけど、だからといって寄ってたかっていじめられているのを見ると、気分が悪い。
そういう場面に出くわすと、ライナスのあまりの情けなさに呆れてため息しか出ない。はやし立てる子どもたちを無視して歩み寄り、私はライナスにハンカチを差し出したものだ。
「いい加減にしなさいよ、いつまで泣いてるの。ほら、鼻かんで」
そうすると罵る言葉が「女にかばってもらう、情けないやつ」と変わる。うんざりしながらいじめっ子たちに軽蔑の視線を向ければ、今度は「うわあ、こわい女!」と私が標的になった。男の子たちははやし立てながら逃げていくし、女の子たちは馬鹿にしたようにくすくす笑いながら聞こえよがしに「お似合いね」とささやき合っていた。
私は決してライナスに優しい態度で接したわけではない。それでも彼は素直にハンカチを受け取り、涙を拭いて鼻をかんだ。のろのろと立ち上がると、しゃくり上げながらぼそぼそと「あ、あ、ありがとう」と礼を言う。
こんなとき、たいてい彼はどこかしらけがをしている。転んで膝をすりむいていたり、どこかを打ち付けていたり。
「うちに来るなら手当てしてあげるけど。どうする? それとも帰る?」
「行く」
私の両親は薬師で、家は村でただひとつしかない薬屋だ。
四人家族で、父はビル、母はジル、三歳下の弟はティモシー。ティムと呼ばれている。
私が家に向かって歩き出すと、その後ろからライナスはとぼとぼとついて来る。鼻をすする音は次第に間遠になり、だいたい家に着く頃には彼の涙は止まっていた。
ティムはライナスが大好きだった。
「ライ兄、あそぼう!」
ライナスが我が家に来ると、ティムは大喜びでライナスにまとわりつく。弟とライナスは四歳の年齢差があるけど、精神年齢はちょうど釣り合っていたのじゃないかと思う。ライナスは図体が大きい割に、中身が幼かったから。ライナスはライナスで、いやな顔を見せることなくいつまででも弟と遊んでやっていた。
弟の面倒を見なくてよくなる私にとっては、大変都合がよかった。
こうして何度か家に連れ帰るうちに、私はすっかりライナスに懐かれた。自分より年上の男の子に「懐かれた」というのはおかしいのかもしれないけど、あれはもう懐かれたとしか言いようがない。
ライナスが家に来たときには弟の相手をさせて、たいてい私は窓際で本を読んでいた。
ライナスは弟の遊び相手というより、まるで下僕のようではあった。弟を背中に背負って走り回らされたり、いいようにこき使われていた。息が切れるほど弟にこき使われていても、ライナスは機嫌よく弟の相手をしてくれる。
「ライ兄! 今度はねえ─」
「ちょっと、ティム。いい加減にしなさい」
あまり弟のわがままが過ぎるときには、さすがに私も叱ろうとする。だけどライナスはにこにこと「いいんだ」と言って、気にする様子がない。
二人をほったらかしで自分の好きなことをしている私は、ほんの少しの罪悪感とともにときどき窓から外を覗く。そうすると二人はいつも、歓声を上げて私に向かって大きく手を振った。手を振り返してやれば、それだけで二人とも満足する。
「あら。今日はライがいるの? なら、おやつは三人分いるわね。晩ご飯もいるかしら」
「聞いとく」
「ありがとう、よろしくね」
両親は、ライナスが我が家に入り浸っているのを当然のように受け止めていた。特別扱いしないが、迷惑がることもない。おやつも食事も一緒。
やがてライナスは、私が連れ帰らなくても自分からうちに来たいと言い出すようになった。
日曜学校が終わると私のところへやって来ては、頬を染めてもじもじしながら「今日、遊びに行ってもいい?」と聞いてくる。乙女か。
私たちの村には、日曜学校というものがある。ご領主さまの肝いりで運営されている。
日曜日になると神殿に子どもたちを集め、神官さまが読み書きや計算を教えてくださる。その上、日曜学校に参加した子には昼食が振る舞われる。貧しい家の子などは、勉強よりもこちらが目当てで通っていると言っても過言ではない気がする。
ライナスは自宅できちんと教育を受けられるはずなのに、なぜか休まず毎回通っていた。いじめっ子たちの標的になるとわかっていても、決して休まない。泣き虫のくせに、こんなところにだけ変に根性がある。
ただし、学校が終わると毎回私の家に来たがるところがいただけない。
「遊びに行ってもいい?」
「女の子の家に遊びに行こうとするから、よけいにからかわれるんじゃない?」
「別にいい」
ムッとした顔で言い返した後、急に不安そうに尋ねてくる。
「行ったら迷惑になる……?」
「ならないわよ」
からかわれたり、はやし立てられたりしたときに、私だってまったく何も感じないわけではない。でも、それに屈して自分の行動を曲げるほうがもっといやなのだ。
ただ、ライナスがうちに来ても、弟と遊ぶだけだ。だったら私に聞くより直接弟に声をかけたほうが、からかわれるネタにされにくいと思う。なのに何度からかわれても、割と性懲りもなく「行ってもいい?」と私に尋ねる。こういうところは、妙に頑固だ。
そのうち日曜学校の後だけでなく、しょっちゅう我が家に入り浸るようになった。
ご領主さまからすると、我が家がライナスを預かっているように感じるらしい。ちょくちょく彼は手土産を持たされていた。焼き菓子だの、燻製肉だの、瓶詰めの魚だの、いただいてありがたい食品が中心だ。さすが気配りのできる奥方さま。
それとはまた別に、いつの間にかライナスは私を懐柔する方法を身につけていた。
どういうことかと言うと、新しい本を持って来るのだ。
「『ヴァリデイル年代記』の新刊が入ったよ。読む?」
「読みたい!」
ライナスが家に居たって全然相手をしてやらないくせに、彼が貸してくれる本はとても楽しみにしていた。我ながら現金だと思う。貸してくれたのは小説だけではない。
「今日は魔法の本を持ってきてみた。読んでみる?」
「初級からあるのね。読みたい」
庶民には触れる機会のない魔法を学べたのは、ライナスのおかげだ。
私には魔法の適性が多少はあったらしい。回復魔法や解毒、浄化といった支援系の魔法を中心に、初級から中級までの魔法をいくつか覚えた。
気がついたら、ライナスの姿が我が家にあるのがすっかり日常となっていた。あの忘れたくても決して忘れることのできない忌まわしい事件が起きたのは、そんな日常の中でのことだった。
私が十四歳、ライナスが十五歳のときのことだった。
それは春が深まってきたある日のことで、店はお休みだった。
「お父さんたちは、薬草摘みに行ってくる。フィーはライと一緒に留守番しててくれる?」
「うん」
いつもなら私も一緒に出かけるのだが、この日はライナスがいたので留守番した。
普段ライナスを特別扱いすることのない両親も、さすがに薬草採集は話が別だ。危険がゼロというわけではないし、万が一にも魔獣と遭遇してしまったらライナスの運動神経では不安がありすぎる。
ライナスと二人で残された私は、暇を持て余した。
さすがの私も、この状況で自分だけ本を読むほど図太くはなかった。
少し考えた末、家の周辺でも採れる薬草を摘みに行くことにした。
家の近くなら危険はないから。
ライナスに薬草の種類や特徴を教えながら、ひたすら採集する。ライナスは短気な割に、こういう作業に対してはとても根気がよく、丁寧に仕事をする。
間違うことがあったのは、最初のうちだけ。ライナスは物覚えがよいので、一度違いを説明すれば二度と間違うことがない。
そうして二人で黙々と作業するうち、どこか遠くから聞き慣れない音が聞こえてきた。
それは獰猛な響きだった。うららかな春の日差しが降り注ぐ野原には、ふさわしくない。私は顔をしかめて手をとめた。頭を上げて耳を澄ませる。
私の様子に気づいたライナスも手をとめ、怪訝そうに尋ねる。
「どうしたの?」
「しー」
私は人差し指を唇の前に立て、ライナスを黙らせた。
耳を澄ませたまま辺りを見回し、そして音の発生源を見つけた。それは魔獣だった。
村の外から続く道に、走って逃げる人影がある。その人は、魔獣に追われていたのだ。信じられない。人里に向かって魔獣を引き連れてくるなんて。人でなしにもほどがある。
「走るわよ!」
私はあわててライナスの手をつかんで立ち上がる。
薬草を入れたかごは、その場に投げ捨てた。彼はわけがわからないという顔だ。彼はまだかごを手にしている。それに気づき、私は再び叫んだ。
「かごは捨てて!」
ライナスがためらったのは、一瞬だけ。すぐにかごを道端に投げ捨てた。
ライナスは、私よりもずっと足が遅い。
いったん手を離し、ライナスを置いて先に家の玄関まで全力疾走した。扉を開けて、ライナスを振り返る。彼はやっと状況をのみ込んだらしい。必死の形相だ。でも、遅い。
小さかった人影は、だいぶ近づいてきていた。魔獣ハンターの装備を身につけている。追ってくる魔獣は、ぱっと見ただけでも四、五体はいた。
やきもきしながら見守っていると、ライナスは足をもつれさせて転んだ。
私はもう、居ても立ってもいられなくなり、ライナスに向かって走り出した。
「ライ、早く!」
「だめだ! フィー、逃げて!」
ライナスは諦めてしまったのか、立ち上がろうとしない。のろのろと身体を起こして私に向かって叫ぶだけ。それを見て、私の頭の中では何かがプツンと切れてしまった。かっとなって、金切り声を上げる。
「何してるの! いいから、早く立ちなさいよ!!」
もどかしくなって駆け寄り、ライナスの手を乱暴につかむ。そして力任せに引っ張り上げた。そのままライナスを引っ張って、家の玄関まで必死に走る。
何とか家の中に引き入れて、バタンと扉を閉めた。その瞬間、逃げてきた男が玄関前にたどり着く。
「頼む、開けてくれ!」
「できません」
開けるわけがない。
だってあの男のすぐ後ろに魔獣がいるのだ。絶対に開けない。意思表示代わりに、扉の鍵をかけた。ただし、扉越しに回復魔法だけはかけてやる。
男は鍵の音を聞いて諦めたらしい。舌打ちをして、また走り出した。
その後ろからは、魔獣の咆哮が聞こえた。獰猛な咆哮に、扉がビリビリと震えた。
恐ろしくて、力が抜けそうになる。だが、まだやるべきことが残っていた。
「ライ、来て」
私は屋根裏部屋に駆け上がり、出窓を大きく開け放つ。
そして魔獣の数を数えた。六体だ。出窓のすぐ外にある鐘を勢いよく鳴らしながら、ライナスに指示した。
「そこの引き出しに入っている魔道花火を六本出して」
それを一本ずつ打ち上げてもらった。
まさか、鐘や花火を本当に使う日が来るなんて。
私の家は、村の外れにある。薬草の採集に出るのに都合のよい場所だからだ。
村の近くには、魔獣は出ない。けれども、何かの事故が決して起きないとは限らなかった。我が家の警鐘は、そうしたときのための非常用だ。
「鐘を鳴らして、魔獣の数だけ花火を打ち上げる決まりなの」
「わかった」
「そうすれば、ご領主さまが対応してくださるから」
少しすると、走り去ったはずの男が戻ってきた。相変わらず魔獣に追われている。何なの、あの男。うちに何の恨みがあるの?
信じられない思いで、出窓から男を見下ろす。男は家の周りを一周してから、裏の納屋に鍵がないのに気づいたらしい。魔獣から逃れようと納屋に立てこもった。
視界から男が消え、魔獣たちはしばらくうろうろしていた。しかし鐘を鳴らす私たちに気がつき、こちらに視線を向ける。裏口の扉や、玄関扉に体当たりを始めた。
「入ってきたら、どうしよう……」
「大丈夫だよ。結界魔法があるから」
だけど、そう言いながらライナスも震えていた。
部屋の隅でへたり込んでいる私に、彼は抱きついた。まるで覆い被さるように。
そのまま二人で、すべてが終わるまで震えていた。本当なら転んだときのけがを手当てしてあげればよかったのだろう。でも、そんなことには気が回らないくらい二人とも怯えきっていた。
ようやく魔獣が駆除されてほっとしたのも束の間、悪夢はまだ終わらない。
討伐後、両親と弟の捜索にあたったご領主さまは、三人を連れ帰ってくださった。荷車に乗せて。白い布をかけて。
三人に駆け寄ろうとする私をとめ、ご領主さまは首を横に振った。
「見ないほうがいい。損傷が激しい」
あの男は村に入る前に、なんと両親と弟のところへ魔獣を連れて行ったのだ。しかも、わざと近くを通って逃げた。魔獣をなすりつけようとしたのだ。
まず三人の中では一番弱い弟が、真っ先に狙われた。母は弟に覆い被さって守ろうとしたが、どちらも助からなかった。
父は魔獣と相打ちになった。
我が家の三人を除けば、村民に被害はなかったそうだ。
私の鳴らす鐘の音を聞いて、みんなきちんと避難したらしい。
ご領主さまは討伐を終えたその足で両親の捜索にあたり、物言わぬむくろとなった彼らを連れ帰ってくださったのだ。
あの男は、ご領主さまに拘束された。
「人殺し!」
討伐隊に連行されていく男に、私は怒りのままに叫んだ。
「回復魔法なんて、かけてやるんじゃなかった─」
そのまま続けて「お前が死ねばよかったのに!」と叫ぼうとしたけど、言えなかった。その前にライナスが抱きついてきて、ぎゅうっと抱きしめたからだ。
三人の葬儀は、ご領主さまが取り仕切ってくださった。
そして村民の命を守った功労者として、ねぎらってくださった。
でも、もう二度と両親と弟は戻って来ない。
「ジルは、最後までティム坊を離さなかった。頭を抱きしめてね」
ご領主さまが説明してくださったその姿勢は、屋根裏でライナスが抱きついてきたのとまったく一緒だった。彼は身を挺して私を守ろうとしてくれていたのだ。そのとき初めて、涙がこぼれた。
「だからティム坊の顔にだけは、傷がひとつもなかったんだ」
とても悲しくて心細いのに、現実感が薄い。葬儀の間は涙が出なかった。
その反対に、ライナスは棺にすがって号泣した。でも彼が泣いたのを見たのは、これが最後になった。いい歳をしていつまでもめそめそと泣き虫だったのに、それ以降まったく泣かなくなったのだ。
このときを境に、ライナスは別人のように人が変わった。
「最近、絡まれても相手にしなくなったわね?」
「時間の無駄だからな」
この変わりようには、びっくりだ。
足が遅いのは相変わらずだったけど、からかわれたり嫌みを言われたりしても、一切反応せずに無視するようになった。この歳になってからかわれて泣くライナスもライナスだけど、この歳になってもはやし立てるような幼稚な連中がまだ数人いたのだ。でもライナスが相手にしなくなると、自然にそうした行為は鳴りを潜めた。いつの間にか、言葉に詰まる癖も消えていた。
私は両親の後を継いで、薬屋を続けた。
たったひとりになってしまった家と店は、がらんとして妙に広く静かで、寂しかった。
弟がいなくなっても、ライナスは相変わらずうちにやって来た。
「もうティムはいないのに」
「だからだよ。ひとりじゃ不用心だ」
私は店の切り盛りや家事で忙しいから、相変わらずほったらかしだ。それでも家に誰かいる、というだけでどれほど心が慰められ、安心できただろう。ライナスがいてくれて、本当にありがたかった。
ライナスは長年入り浸っていただけのことはあり、よく勝手をわかっている。
「帳簿は俺が付けておくから、調合しといて」
「うん。ありがとう」
食事の支度をしていれば、店先の整理をしてくれた。
冷静に考えたら、ご領主さまのご子息に何をやらせてるんだって感じではある。でも、ライナスだから。
ライナスがお兄さまに剣を教わりはじめたことにも、驚かされた。
「何してるの?」
「鍛錬。兄さんに教わってる。まともに動けなきゃ、用心棒にならないからな」
え、用心棒? きょとんとする私に、ライナスは「もうおじさんがいないから」と説明した。
うちにいるときでも、暇さえあれば鍛錬している。どうやら本気らしい。
背ばかり高くてひょろひょろと頼りない体型だったライナスは、お兄さまには及ばないものの、次第に筋肉がついて男らしくなってきた。一見それほど変わっていなくても、よく見ると腕も足も前とは全然違って太くなっている。
筋肉がついたら、足も多少は速くなった。今までは全力疾走で私と距離が二倍くらい違っていたのが、私よりちょっと遅い程度にはなった。そして何よりすばらしいことに、転ばなくなった。
筋肉がついた分だけライナスの腕力は上がった。思えば、もともと小さい頃からひょろい割に力は強かったのだ。運動神経が鈍すぎるせいで目立たなかったけど。
単純な腕力だけなら村一番にまでなったらしい。見るからに強そうなあのお兄さまにも腕相撲で勝てるというから、すごい。
泣かなくなったライナスは、何だか急に大人びて、かっこよくなってしまって戸惑う。
ライナスのくせに。
店の切り盛りと家事に慣れ、家にライナスと二人きりでいるのが日常になってきた頃、魔王が復活したとの知らせが国中を駆けめぐった。
私が十七歳、ライナスが十八歳のときのことだった。
魔王復活の知らせと前後して、それに勝るとも劣らぬ重大な知らせに村中が大騒ぎになっていた。
なぜなら村の神殿内に『試練の石』が現れたからだ。
『試練の石』とは、勇者にしか抜けない聖剣が刺さっているという、誰でも知っているあの『試練の石』だ。そんな世界の行く末に関わるような重要なものが、こんな片田舎の神殿に現れたというのだから、驚きもする。
我こそはと思う者はさっそく挑んでみたらしいが、誰にも抜けなかった。
「ライは試してみないの?」
「行かない。無駄だもの」
「まあねえ。何かの間違いでライが抜いちゃったら、世界滅亡待ったなしよね」
「うん」
私はもちろん、当の本人さえ剣が抜けるとはつゆほども思っていなかった。
けれども知らせを受けた王都からたくさんの人々が送り込まれ、名だたる騎士たちが次々と挑み、そして敗れた後、村人は老いも若きも全員が挑んでみるようにとお触れが出た。おむつが取れたばかりの幼児も、ぎっくり腰を患っているようなおじいちゃんたちも例外でないとなれば、もちろんライナスだって挑むほかない。
せっかくなので物見高くついて行って、ライナスの挑戦を見守ることにした。
まるで野次馬に配慮したかのように、『試練の石』は祭壇の正面に置かれていた。ライナスは聖剣の柄に手をかけると、振り向いて私の姿を探す。子どもみたい。確認しなくても、ちゃんと見ているのに。笑って手を振った。
私に手を振り返そうとしたのか、ライナスは聖剣を握ったのと反対の手を挙げかける。そのとき、あり得ないと思っていたことが起きた。
聖剣がするりと石から抜けたのだ。
私は驚きに目を見張る。思わず「えっ」と声がもれてしまった。
声に気づいた周りの人々の視線が、ライナスの手もとに集まる。誰もライナスには注目していなかったのに。そして、どよめきが起きた。
周りの人々の様子に、ライナスは怪訝そうに眉をひそめた。首をかしげながら自分の手もとを見やって、やっと彼は抜き身の聖剣に気づいたらしい。手もとを二度見し、焦った顔をした後、何を思ったのかライナスはそっと聖剣を石に戻してしまった。何やってるの。
もしかしたら「なかったこと」にしたかったのかもしれない。でも天は無情だった。ライナスが『試練の石』から離れる前に、荘厳な白い光の柱が彼を包むように立ち、きらきらと光のしずくが降り注いだのだ。
この光の柱は、その場に居合わせた人々だけでなく、村民全員が目撃することになった。神殿の屋根を突き抜けて、光の柱は天高くそびえ立っていたと、後で聞いた。
これは勇者の覚醒を示す現象なのだそうだ。
歴史の本によれば、これまでの勇者たちは全員『試練の石』から聖剣を抜くことで勇者の資質を示す。その後の鍛錬により、十分な実力が身についたときに覚醒していた。聖剣を抜くと同時に覚醒した例は、ひとつもなかった。
おそらくずっと鍛錬を続けてきたおかげで、聖剣を抜いたときにはすでに十分な身体作りができていたのだろう。ライナスは史上最短で覚醒した勇者となった。
このときを境に、ライナスは再び別人のように変わってしまった。
運動神経の鈍かったライナスは、もういない。
勇者と呼ぶにふさわしい素早さと機敏さを身につけていた。どうやら勇者というものは、覚醒する前には身体的な能力に制限がかかっているらしいのだ。理性の育っていない幼いうちから常人をはるかに越える身体能力を持つと、自分も周囲も傷つけてしまうから、それを防ぐための仕組みなのだという。
変わってしまったのはライナス自身だけでなく、周囲の目もだ。
むしろそちらの変化のほうが、私にとっては大きく感じられた。
あれほど馬鹿にしていたくせに、誰もが彼をちやほやする。特に女の子たちの手のひらの返し方がすごかった。
「本当は前からずっとかっこいいと思ってたの」などと何人からも言われたらしい。
子ども時代に馬鹿にしたことなど、彼女たちの中では「なかったこと」になっているようだった。でも、馬鹿にしたほうが忘れたとしても、されたほうはそう簡単には忘れられないものだ。しかもライナスは、割と根に持つたちだ。
ライナスが勇者として覚醒したとき、実は私にもひとつの変化があった。
「ねえ、ライ。私にも光の柱が立ったんだけど、見た?」
「え、いつ?」
「ライに光の柱が立ったのと一緒のとき」
「見てない」
「そうよね……」
どうやらそれは、私以外の誰の目にも映ってはいない様子だった。
そうは言っても、気にはなる。人がいないときを見計らって、神殿に置かれている鑑定板に手をかざしてみた。すると予想どおり、私にもスキルがひとつ追加されていた。
「ライ、私にも神聖スキルが追加されてる」
「なんてスキル?」
「『封印解除』ですって」
「何ができるの?」
「ええっと、『対象の封印を解除し、全回復する』って書いてある」
何の役にも立たないどころか、何だかやばそうだ。
だって魔王を倒して封印するのが魔王討伐なのに、こんなスキル絶対に使っちゃだめじゃない? スキルを持ってるだけで、危険人物認定されそう。
「何のためのスキルかわからないけど、秘密にしておくべきだと思う」
「そうよね。私もそう思う」
誰にも教えるべきじゃないという点で、二人の意見は一致した。
勇者として覚醒した日、ライナスは自宅に戻らず私が家に帰るのについてきた。
家に帰らなくていいのかと思ったけど、彼の真剣な顔を前にその言葉はのみ込んだ。
私の家に着くと、ライナスはなぜか顔を赤らめてもじもじしている。
これは何か言いたいことがあるけど、言いあぐねている顔だ。彼が口を開くのを、私は辛抱強く待った。
「勇者に選ばれたから、そのうち魔王討伐に行かなくちゃならない」
「うん」
この話のどこに頬を染める要素があるのかわからないまま、私はうなずいた。
「だからね」
「うん」
「だから、討伐から無事に帰れたら、結婚してほしい。待っててくれる?」
「え、なんで?」
心に浮かんだ疑問を、ついうっかりそのまま口に出してしまった。その瞬間、ライナスの顔から血の気が引いた。しまった。激しく失言したことは、自分でもすぐ気がつく。絶望した彼が逃げ出したりしないよう、急いでしっかり抱きついてから口を開いた。
「ごめん、勘違いさせちゃったね。結婚するのはいいの。でも、なんで討伐から帰ってからなの?」
「え?」
「結婚するのが後でも先でも、帰りを待つのに変わりはないでしょ? だったら先でよくない?」
私の言葉が頭の中に染み渡ると、一瞬ライナスは目を丸くしてから顔を輝かせ、「うん!」と私を抱きしめた。
「ちょっと、ライ。痛い痛い痛い! この馬鹿力!」
覚醒したてでまだ力の加減がわかっていないライナスに思い切り抱きしめられ、肋骨が折れるかと思った。
ただ、ライナスはこれでも一応貴族の子だ。
「ご両親に反対されたりしないかな?」
「大丈夫。うちの家族はとっくにフィーのことを嫁だと思ってる」
ライナスの話を聞いて、力が抜けた。そうだった、そういうご一家だった。
私が討伐の前に結婚したかったのには、理由がある。
祝福された結婚指輪を、互いに身につけておきたかったのだ。
「指輪は手作りでもいい?」
「いいよ。フィーが作ってくれるなら、どんなのでも」
今はもうほとんどすたれてしまった風習だけど、結婚指輪は神殿で祝福してもらうことができる。
指輪を祝福してもらうには、神聖文字を刺繍したタペストリーを神殿に奉納する。ただしそのタペストリーに刺繍する必要のある文言がうんざりするほど長い上、書体にも細かく決まりごとがある。要するに、作るのがものすごく大変なわけだ。
にもかかわらず、祝福の効果がそこまでありがたいものじゃないところが、すたれた理由じゃないかと思う。タペストリーは母が遺してくれた。
「『祝福された指輪』は、何ができるの?」
「効果は二つあって、ひとつは婚姻中かどうかがわかること」
「え? そんなの、指輪がなくてもわかるよね?」
「うん、まあね……」
もっともな指摘に、私は視線をそらすしかない。
片方がこの世を去ってしまったり、あるいは神殿で離婚を宣言したときには、指輪は二つとも壊れて消えてしまう。でも普通、こんなことは指輪に頼らなくても本人たちにはわかっている。何より離別や死別で消えてしまうという点が、指輪に資産価値を求める人々からは敬遠された。
「もうひとつは?」
「婚姻中に一度だけ、相手のいる場所に瞬間移動ができること」
「お? これはちょっとすごそう」
「でも一回限りだし、相手のところに飛べるだけなのよね」
「使えないな……」
「でも、ライにはとっても便利よ。討伐が終わったらすぐに帰還できるもの」
「そうか。さすが、俺のフィー。最高だ!」
かくして私とライナスは神殿に向かい、私が手作りしたビーズ細工の結婚指輪を祝福してもらって、神官さまの立ち会いさえなく二人だけでひっそりと結婚の誓いを交わした。
そしてライナスは、魔王討伐に出た。
史上最短で覚醒した勇者ライナスは、討伐に出立したのも史上最短だった。
* * *
ライナスが魔王討伐に出ている間の一年間、私は少しずつ旅支度を進めた。
何もなければそれでよいけど、自分の持っているスキルを考えると、不測の事態に備えておくべきという気がしたのだ。ライナスの覚醒と同時に授けられたスキルだというのも、気になる要因だった。
そして討伐から帰ってきたライナスは、すっかり別人になっていたのだった。
私のことを愛称でなく「フィミア」と呼び、結婚指輪を身につけていないあのライナスは、いったい何者なのか。
私のライでないことだけは、間違いない。
だって結婚指輪は、ちゃんと私の指にまだはまっているのだから。あれは一度身につけたら、指輪が壊れて消える以外に外す方法はない。つまり一方の指輪だけが残っている状態というのは、ありえないのだ。
私はライナスもどきと王女さまが帰って行った後、大急ぎで旅支度をした。
ご領主さまにだけは、簡単に事情を説明する手紙をしたためた。
支度が終わった頃には、とっぷりと日が暮れてしまっていた。
自分にどれだけの荷物が運べるのか、見当もつかない。よろよろするほど荷物を背負って馬にまたがり、もう一頭の馬の手綱を握りしめて、指輪に強く願った。
「ライナスのところへ連れて行って!」
私の願いに応えるように、足もとに淡く光る白い魔法陣が現れた。魔法陣の光は徐々に増し、全身が真っ白い光に包まれた後、景色が暗転した。背負った荷物と馬は、無事に運べたようだった。
暗がりに目が慣れてくると、すぐ目の前に大きな透明の球体があるのに気づいた。その中心に、傷だらけのライナスが目を閉じて浮いている。左手の指を見ると、ビーズ細工の指輪がはまっていた。私のライだ。
私は馬から下りて、球体に両手を当て、封印解除を強く願った。そうすると、手を当てた部分が半透明な白色に光る。それがじわじわと少しずつ広がっていった。やがて球体全体を覆い尽くす。たぶん実際には五分かそこらだったと思う。体感では一時間以上だったけれど。
球体を覆った光は、中にいるライナスも包み込んだ。見る間に彼の傷が消えていく。すべての傷が消えると、今度は光が弱まっていった。中にいるライナスは、瞬きをしてから目を開き、私のほうを見た。本物のライナスだ。私は笑みを浮かべた。
「助けに来たわよ、お姫さま」
「そこはせめて、王子さまにしておいてよ」
ライナスは笑いながら球体の中から飛び降りてきた。
「はいはい。助けに参りましたよ、封印されちゃった間抜けな王子さま」
「ひどい」
ライナスが飛び降りると、球体は一気に手のひらに載る大きさにまで縮んでから地面に落ちて、光が消えた。私は地面に転がった封印水晶を拾い、荷物の中に大事にしまった。
「来てくれてありがとう。本当にフィーには救われてばっかりだ」
そう言ってライナスが抱きついてきたので、私は「どういたしまして」と返してキスをした。
ライナスによれば、ここは魔王城の最奥らしい。
野営の準備をしてから、たき火をおこし、討伐のときに何が起きたのかをライナスから聞いた。
最終戦で魔王とライナスの一騎打ちになったとき、魔王は戦闘の途中からライナスの姿に擬態しはじめたそうだ。どちらも完全に力を使い果たして倒れ込んだとき、本当なら王女さまが封印水晶を使って魔王を封印するはずだった。
ところがそのとき、魔王が言葉巧みに王女さまを丸め込んでしまった。
自分なら勇者として王女と結婚した上で一生大事にしよう、と約束したのだそうだ。王女さまはそれに乗ってしまった。
ライナスは「あの王女、俺にはフィーがいるって言ってるのにベタベタしてきて気持ち悪いと思ってたら、最後はこれだよ」とぼやく。本当に見分けがつかなかったのか、自分に都合のよいほうを選んだのか。
「ねえ、ライ。これまでずっと百年くらいごとに魔王が復活してたのって─」
「うん。フィーの考えてるとおりだと思うよ」
つまり、毎回魔王の代わりに勇者が封印されていたってことだ。しかもその取り違えは記録に残らない。逃げ延びた魔王は百年ほどかけて力を戻し、復活する。一方の勇者は封印されたまま、誰にも知られることなく朽ち果てていた。ひどい話だ。
封印解除のスキルを与えられた者もいたかもしれないのに。結局使われることはなかったのだろう。
私だって祝福された結婚指輪がなければ、ひとりでここにたどり着けたかあやしいところだ。きっとたどり着く前に魔王に見つかって、抹殺されていたに違いない。私ひとりを始末するだけなら、力を失った魔王にだって簡単なことだ。
騙された王女さまには気の毒だけど、彼女に明るい未来が待ち受けているようには思えない。
まあ、それも因果応報か。
それはさておき、私は自分たちのこれからのことが気になった。
「ところで、来るときは一瞬だったけど、帰るのに一年近くかかるんじゃない?」
「いいじゃないか。長い新婚旅行だ!」
ライナスがうれしそうに笑ってキスしてくるので、私もつられて笑ってしまった。
ライナスは封印解除のスキルのおかげで完全に勇者の力を取り戻しているし、弱体化した魔王に負ける要素は何もない。今度という今度こそ、二度と復活することのないよう魔王を本当に封印できるはずだ。
新婚旅行と呼ぶにはちょっと野性味にあふれすぎている気はするけど、ライナスと一緒ならきっとそれも楽しい。
