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愚かな王太子に捨てられた私を、兄王陛下が離してくれません 1
著者:越智屋ノマ イラスト:漣ミサ
【第一章 王冠を捨てた王太子】
「侯爵令嬢エヴァンジュリン・ヴェルトワーズ。今この時をもって、お前との婚約を破棄する!」
え。
……バカですか?
と、私は心の中でつぶやいていた。
ここは宮廷の大広間。絢爛な宮中舞踏会の真っ最中に、いきなり声を張り上げたその人物は、王太子ランス・ユードリヒ=ログルネーテ殿下。私の、婚約者だ。
普段の私はほとんど感情を表に出さないけれど、今回ばかりは開いた口がふさがらなかった。
……「殿下ったら、ご冗談を」と、聞き流すのは難しい。
だってこの場には、国内外から大勢の賓客が招待されているんだもの。来年に控えたランス殿下と私の結婚式の日取りを、このあと正式発表するところだったのに。まさかの婚約破棄?
ちなみに今日は、私の二十歳の誕生日でもある。……お誕生日のサプライズだとしたら最悪ね。
見たところ、ランス殿下は本気のようだ。豪奢なシャンデリアに照らされて、きらびやかに笑っている。艶やかな金髪と王家の色である紫の瞳を持つ彼は、まさに絶世の美男子だ。……でも絶世なのは顔だけで、中身はいつも通りの空っぽ。
「この場に集う、すべての者が目撃者となるのだ! 俺こそが次代の王であり、お前は俺の寵愛を得られなかった惨めな女に過ぎない!」
会場を見渡すランスの瞳は、まるで拍手喝采でも期待しているかのよう。自分勝手に振る舞うことが、王の器だと思っているらしい。
眉間を揉みほぐしたい欲求に駆られながら、私は感情を落とした声でこう言った。
「しかし、ランス殿下と私の婚約は先代国王陛下の御世より定められていたことです。殿下の一存で覆すなど――」
「ふん! ヴェルトワーズ侯爵家との縁談が、国益を鑑みてのことだったのは理解している。だが、相手がお前である必要はないだろう?」
大広間にいる全員の視線が、こちらへと注がれている。ランス殿下と私、そして――殿下の腕に抱かれている愛らしい少女に。
「お前の代わりに、次女のパトリシアを我が妃に迎えよう!」
「ふふ。ごめんなさい。エヴァンジュリンお姉様」
私の妹、パトリシアは小悪魔めいた笑みを浮かべてランス殿下の胸に身を寄せていた。
「……ランス殿下。わざわざ妹を求める理由をおうかがいしても?」
「すべてお前の責任だ! 次代の王である俺への敬意を欠いた数々の振る舞い。今思い出しても腹が立つ!」
こちらにびしりと指を突き立てて、ランス殿下は〝婚約者不適格〟の理由を挙げ連ねた。
いわく、俺を蔑む冷たい目つきが不快で堪らない。
いわく、俺が政務の合間に少しでも休めば、すかさず怠慢呼ばわりしてくる。
いわく、学生時代も俺への配慮を欠き、学科試験や乗馬大会で好成績を見せつけてきた。
……つまり全部、負け惜しみ。列席者の面々も、物言いたげな顔をして殿下と私を見比べていた。
――浅はかで自分勝手な王太子。そんな評判は、この場の誰もが知っている。来年の即位を前に、いよいよ歯止めが利かなくなってきたことも。しかも賓客の前での今回の狼藉は、国の威信すら揺るがしかねない。
「お前と違って、妹のパトリシアは偉ぶった態度を取らない! いつも素直で愛らしく、俺への敬意にあふれている。その姿に、どれほど癒されてきたことか」
「うふふ」
パトリシアはランス殿下の胸に身を預け、うっとりと幸せそうだ。ふんわりとしたドレスに身を包み、ストロベリーブロンドの髪を結い上げた彼女はまさに夢見る乙女といった様子だ。彼女の左手には、ランスの瞳と同じ紫の石を嵌めた指輪が、きらきらと輝いており――。
その左手を見た瞬間、私は自分の顔がこわばるのを感じた。
「それは……」
思わず声を漏らすと、ランスはせせら笑った。
「どうだ、エヴァンジュリン。悔しいだろう? その指輪は俺の愛の証として、パトリシアに贈った物だ!」
……いえ。
指輪じゃなくて。
私が目を留めたのは、パトリシアの左手の甲に描かれている〝祝印〟だった。
「妹の祝印、デザインが間違っていますわ」
「は?」
このログルネーテ王国の貴族女性には、祝印という光の紋章を左手の甲に描くという習わしがある。愛と真実を司る女神アルセナを示す紋章だ。もちろん、私や列席する国内貴族女性の左手にもある。
「大陸教の主神たる女神アルセナを示す光の紋章――祝印を描き間違える女性が、王太子妃に相応しいとは思えませんが?」
私がそう言うと、ランス殿下は嘲りの笑みをこぼした。
「お前は本当につまらない女だな! パトリシアのは描き間違いではなく、あえて華やかに描いているだけだ。若い女は皆そうしているじゃないか。お前が描いている古臭いものとは違うんだよ!」
……私だって、そういう流行があるのは知っていますけれど。
建国から二千年余りの歴史を持つ祝印の文化だが、最近は若い女性の間で祝印をかわいくデコレーションするのが流行っている。けれど、公的な場では本来マナー違反だ。
パトリシアの祝印は、ごてごてに盛られてセンスが悪い。それを褒めるランス殿下も同格だと思った。
「指輪に目もくれず、祝印とはな。お前の愚鈍さには嫌気が差すぞ」
「あらあら。お姉さまったら」
そんな私たちのもとに、お父様――ヴェルトワーズ侯爵が進み出てきた。お父様は上背のある壮年の紳士だ。普段は落ち着き払っているが、今はその目に戸惑いの色が滲んでいる。
「殿下! なにをお考えなのですか⁉ それに、パトリシア、お前は……」
「お父様、今まで隠していてごめんなさい。わたし、ずっと前からランス殿下と愛し合っていたの!」
「なんっ……」
ヴェルトワーズ侯爵は真っ青な顔で息を呑み、ランス殿下に向き直った。
「おそれながら、ランス殿下。パトリシアとの婚約などありえません。なにとぞ、ご再考を!」
「黙れ、ヴェルトワーズ侯爵。俺の決定に口を出すことは許さん!」
やっぱりお父様は、ふたりの関係を知らなかったみたいね。私はずいぶんと前から知っていたけれど。
将来的に「パトリシアを側妃に」と言われたら、私には断る権限もないので「お好きにどうぞ」と応えるつもりだった。でも、まさか婚約破棄までお望みだったなんて……そこまでは想像していなかったわ。
突然の婚約破棄騒動に、大広間はすっかりざわついている。
――ああ。パーティが台無しね。今日は大陸中から、こんなに沢山のお客様がいらしているのに。
「俺の言葉こそがすべてだ。まもなく王位を継ぐこの俺が、すべてを決める‼」
もはや王様気分のランス殿下。まだ王太子でしかないのに、頭の中では戴冠式がお済みらしい。彼は国王陛下の座する高座を振り向き、自信たっぷりにこう言った。
「国王陛下、エヴァンジュリンとの婚約の破棄を認めてください! 何ら問題はないでしょう?」
国王陛下への礼を失した物腰を見て、思わず私は眉をひそめた。私だけでなく、列席する面々も不快感や驚きを隠せずにいる。大広間が不自然に静まり返り、全員の目が国王陛下に吸い寄せられていった。
国王、グラディウス・エルガ=ログルネーテ陛下へと。
「……」
二十七歳の若き王は、眉根を寄せて唇を引き結んでいた。
ランス殿下の異母兄に当たる国王グラディウス陛下は、来年に退位を控える〝期限付きの王〟だ。うなじで束ねた長い黒髪は黒曜石の艶を帯び、硬質な美貌には理知的な影が差している。長い睫毛に縁どられた切れ長の瞳は、王家の色である紫――ランス殿下と同色なのに、静謐な色香が匂い立つようだ。
「――王太子ランスよ」
国王陛下は静かに立ち上がった。
「お前は、今日の舞踏会の意義を理解していないのか」
「当然理解していますよ。俺の結婚式と戴冠式の日取りを、正式発表するためのパーティでしょう? だからこそ、この場でエヴァンジュリンとの婚約破棄を宣言しなければならないんです」
ランス殿下は、ふたたび私を指さした。
「こんな女、俺は最初から気に入りませんでした! しかも本当は、ヴェルトワーズ侯爵の愛人の子だというじゃありませんか⁉ そのように卑しい女が王妃に相応しいはずがありません!」
「愛人の子?」
国王陛下が微かに語尾を上げた。
突如のスキャンダル発言に場がざわつき、私と父に好奇の視線が集まってゆく。屈辱に顔を赤くする父の隣で、私はことさら表情を落とした。
「ええ、パトリシアが打ち明けたのです! エヴァンジュリンは、正統な嫡女ではないと! そうだな、パトリシア?」
「はい」
パトリシアは笑みの形に唇の端を吊り上げ、待ちかねたように語り始めた。
「わたし、もうこの女をお姉さまと呼ぶのは耐えられません! エヴァンジュリンは幼い頃、うちに連れてこられたんです。お父さまったら、いきなり『今日からこの子がヴェルトワーズ侯爵家の長女だ』なんて言い出して……」
憎しみに満ちた目で、パトリシアは私を睨みつけた。
「図々しくわたしの家に入り込んで、そのまま王妃の座に就こうだなんて! あんたみたいな女を、詐欺師って言うんだわ!」
……あらあら。
パトリシアったら、余計なことを言ってしまったのね。お父様から、「絶対に誰にも言ってはいけない」って子どもの頃から命じられていたのに。
パトリシアの言っているのは、半分当たりで半分間違い。確かに私は、もとはヴェルトワーズ侯爵家の子どもではなかった。四歳で引き取られ、〝長女〟として振る舞うようにと仕込まれたのだ。
本当の出自は、私自身も知らない。それでも私は、ヴェルトワーズ家の皆さんを家族と思うように努力してきた。皆さんも、異物に過ぎない私を受け入れようとしてくれていたと思う。ただひとり、パトリシアを除いて。この子だけは、事あるごとに私を詰った。……「愛人の子のくせに」って。
「もう十分だ」
私の回想を断ち切るように、国王陛下の声が響いた。
「ランス。婚約破棄を希望するお前の言葉、誠に誤りではないのだな?」
「無論です」
「エヴァンジュリン嬢を失うことに、本当に悔いはないか」
念を押されるようにもう一度問われ、殿下は鬱陶しそうに顔をしかめた。
「言ったでしょう? こんな高慢な女、絶対にいりません!」
そうか。とつぶやき、国王陛下は息を吐いた。
「ならば仕方あるまい。王太子ランス・ユードリヒ=ログルネーテとエヴァンジュリン・ヴェルトワーズ侯爵令嬢との婚約解消を認めよう」
にやりとランスは笑い、列席者たちは息を呑む。
「そして――」
そして国王陛下は、宣告した。
「王太子ランスを廃太子とすることを、議会に諮る」
「⁉」
静まり返っていた空気が一転。大広間が騒然となり、ランス殿下も動揺している。
「なっ、何を言っているのですか⁉ 俺を……廃太子に?」
まあ、それはそうなるわよね。だって――。
私は自分の左手を見つめて、そっと溜息をついた。
「何を言っているんですか、兄上! ご乱心しましたか⁉」
公式な場では兄ではなく国王陛下と呼ぶべきところを、ランス殿下はすっかり取り乱している。国王陛下は紫水晶の瞳をランス殿下に向けて、断ずるように言い渡した。
「乱心しているのはお前だ。エヴァンジュリン嬢がこの国の王妃となるのは国是。娶らぬならば、王位を捨てるに等しい――お前には幾度も通達されていたはずだ」
「はい?」
「まさかとは思うが、理解していなかったのか……?」
「?」
首をひねるランス殿下に、国王陛下はまばたきをひとつ返した。その視線には、弟への失望と軽蔑が入り混じっている。
「エヴァンジュリン嬢。そなたの祝印を示してやれ」
「……よろしいのですか、陛下?」
「ああ。もはや隠す必要はない」
最上級のワインのようにしなやかな声で、陛下が私にそう告げる。私は陛下に礼を返すと、祝印を示すようにしてまっすぐ左腕を掲げた。
「はっ。祝印が何だというんだ?」
――本当に、うるさい人。
心底呆れ果てながら、私は呪文を口にした。
「〝照らせ〟」
その瞬間。
私の祝印から、純白の光があふれ出した。舞踏会のきらびやかさとはまったく異質の、新雪のように清らかな輝き。一瞬で大広間全体を満たしたそれは、やがて音もなく消えていった。
ぽとり。と誰かが扇を落とす音。
ごくり。と誰かが息を呑んだ音。
光に洗われた直後の空間を、沈黙が埋め尽くす。
「……な、なんだ? 今の光は」
やがて、ランス殿下がつぶやいた。
「エヴァンジュリン。今のは何の魔導具だ? 何のつもりでいきなり――」
「魔導具ではありません」
「は?」
「これは女神の光です」
要領を得ない様子のランス殿下に向かって、私は事実を突き付けた。
「私の祝印は化粧で描いたものではなく、生まれながらの〝女神の加護〟だと申し上げたのです」
私の言葉を引き継いで、国王陛下が宣言した。
「エヴァンジュリン嬢は、女神の加護を宿す者。真なる祝印を持って生まれた〝加護の乙女〟である!」
――おお‼ と、大広間の空気が一気に震えた。ただのざわめきではない。畏怖と喜びがない交ぜになった、驚きの表情を皆一様に浮かべている。
「か、加護の乙女⁉」
「数百年に一度生まれるという、あの?」
「……伝承の、女神アルセナの御遣いが⁉」
列席者たちがこちらに向かって、ひとりまたひとりと膝をついていった。私はその様子を、どこか現実味のない気分で見つめていた。
「加護の乙女が王妃となるのは絶対の掟だ。女神の祝福は、ログルネーテ王家を介して大陸全土に降り注ぐ。知らぬ者などいまい」
陛下はさらりと述べたけれど、その意味は重い。宗教も外交も治安も、あらゆるものに直結する重大な真実なのだから。
「我が国ログルネーテは、最初の王と女神アルセナの契りによって始まった。女神は王に祝福をもたらし、王家が民と周辺諸国にそれを広げた。ゆえに祝印を宿す〝加護の乙女〟は、大陸全土の安寧の源だ。現れれば、必ず王妃とならねばならぬ。これが二千年続く絶対の掟である」
――それが、私の正体だ。だから、愛人の子なんかじゃない。
左手に祝印を持っていた赤ん坊、それが私。出生直後に教皇庁に引き取られ、〝福音をもたらす者〟と名付けられた。そして次期王妃という宿命を背負い、四歳のときにヴェルトワーズ侯爵家の長女になったの。
「戒律に従い、エヴァンジュリン嬢の事実は厳重に秘匿されてきた。そして二十歳を迎える今日、公表することになっていたのだ」
「……っ! そ、そんな重大なこと、せめて俺には知らせるべきでは⁉」
ランス殿下が声を裏返らせると、国王陛下は冷ややかに告げた。
「知らせていただろう。何年も前から」
「は?」
「彼女が加護持ちであることも、今日の舞踏会で開示することも。神聖古語で綴られた、教皇からの極秘文書を読んだはずだ」
神聖古語は、王家と教皇の間だけで使用される古代からの契約文字だ。
「文書⁉ ……あっ」
ランス殿下が青ざめた。
「まさか、あれが……」
なにやら、思い当たる節があるようだ。
「お前はそれに目を通し、承認のサインを提出していた。にもかかわらず婚約破棄か。王冠を捨てて愛に生きるとは、なかなかの覚悟だ」
「よ、読んでいませんでした……」
「世迷言を」
「本当です! 実は、俺……神聖古語が読めないんです‼」
えっ。字が読めないの……?
私をずいぶんとないがしろにしてくれると思っていたら……まさか正体を知らなかったなんて。肩書きばかりで何もできない人だとは知っていたけれど、想像の斜め上だった。
「話にならん」
「発言を撤回しますっ! やはり、エヴァンジュリンは俺の妃に――」
「ちょっ、ちょっと待って。ひどいわ、ランスさま!」
「うるさい! お前は側妃でいいだろう⁉」
「そんな! いやよ、わたしが一番じゃなきゃいやなの‼」
……このふたり、どこまで国の恥を晒すつもりなのかしら。
国王陛下は、冷ややかな態度で口を開いた。
「撤回は認めない。女神アルセナへの愚弄は、女神崇拝の諸国に対する愚弄でもある。私は来年退位し、お前に王位を譲る予定であったが――事情が変わったな」
そして静かに息をつくと、大広間全体に響き渡る大きな声で宣言した。
「退位は取りやめだ! エヴァンジュリン嬢は、私が娶る」
陛下の言葉に、大広間に衝撃が走った。……国を揺るがす決断だ。
「いきなり何を言い出すんだ、兄上!」
ランス殿下は目を血走らせ、掴みかからんばかりの勢いで陛下に詰め寄った。公式の場であることさえ忘れ、礼儀も敬語も消し飛んでいる。
「兄上は本来、王になる資格さえ持っていないじゃないか! 俺が成人するまでの〝中継ぎ〟という特例だっただろう⁉」
――そう。
現王グラディウス陛下は、前国王と妾妃との間に生まれた子。この国の法律では、妾腹の王子に継承権はない。しかし前王の崩御の折、正嫡のランス殿下は十三歳――。ゆえに殿下が成人するまで、一代限りの王位に就くことが議会で承認されたのだった。
グラディウス陛下は妃を娶らず、王位を弟に継がせるまで余計な火種を作らないよう独身を貫いてきた方だ。なのにその〝仮初の王〟が、約定を覆そうとしている。
「自分勝手に法を捻じ曲げるなんて、無茶苦茶だ‼」
「その口を閉じよ。これ以上、我が国の品位を貶めることは許さん。――そなたの今後については、追って通達する。退席せよ」
控えていた衛兵たちが、陛下の合図でランス殿下とパトリシアを取り囲んだ。
「卑怯だぞ、兄上! 今さら王位が惜しくなったんだな⁉ く、くそ、離せ、お前たち。俺はこの国の次期国王だぞ⁉」
「痛いっ! 引っ張らないでよ、やめてぇ」
衛兵に引っ立てられながら、パトリシアは私を睨みつけた。
「ずるいわ、お姉様! 生まれが特別だからって、王妃になれるなんて不公平よ!」
……そうね、パトリシア。
人生はとても不公平。私だって、そう思うときはある。望んで祝印を持って生まれたわけでもないし、王妃になるのも意思ではない。
生まれたときから私は駒なの。
だから私に言わせれば、自由なあなたがちょっぴり羨ましいわ。
「こんな横暴、王太后が黙っていないぞ⁉」
――王太后。
ランス殿下がそう叫んだ瞬間、衛兵や貴族たちはたじろぐ様子を見せた。しかし、陛下がすかさず声を投じる。
「かまわん、連れていけ。国王の命令だ」
「――はっ!」
衛兵たちに両脇を抑えられ、ランス殿下は今度は私に罵声を浴びせた。
「くそっ……。エヴァンジュリン! 婚約者のくせに、兄上とつるんで俺を嵌めたんだな⁉ こ、このアバズレめ――‼」
という捨て台詞を最後に扉が閉まり、ふたりの声は完全に聞こえなくなった。
「ふぅ」
思わず、溜息が漏れてしまった。侯爵家長女としての仮初の日々も、これでようやくおしまいだ。そう思うと、少しは気分が軽くなる。……本当は、嘘をつくのは嫌いなの。
「列席者の諸君」
国王陛下は、私の隣に並び立った。毅然としたその所作は、王の威厳そのものだ。
「加護の乙女、エヴァンジュリンこそが次の王妃だ。彼女が大陸全土の希望となることを、我が王冠に懸けて宣言する!」
深くて、揺るぎない声音。
場の空気が期待と安堵に包まれて、列席者たちは歓喜の声を上げた。
「グラディウス王、万歳!」
「加護の乙女、万歳!」
グラディウス陛下に頭を垂れながら、私は少しホッとしていた。陛下の人柄はよく知らないけれど……少なくとも、ランス殿下よりしっかりしているのは間違いない。
私は、伴侶を選べない。
国王が誰であろうとも、その人に嫁ぐしかないのだ。どうせ結婚しないといけないなら、まともな相手のほうが助かる。そんな打算を胸に秘め、私は少し顔を上げて陛下を見つめた。――しかし。
目が合った瞬間に、陛下がぱちっとウィンクをしてきた。
(……ん⁉)
何ですか、今の。あなたそういう性格でした⁉
有能で一分の隙もない辣腕家――ジョークのひとつも言いそうにない国王陛下が、まさかのウィンク⁉ 思わず二度見したけれど、陛下は普段の硬質な表情に戻っている。
大丈夫よね……? まともで落ち着いた王様のはずよね?
きっと目の錯覚だったに違いない。……けれどもなぜか落ち着かず、心臓が早鐘を打ち続けていた……。
その夜から、私は王族専用の居住区である〝奥の宮〟に迎え入れられた。今後のことは明日、国王陛下からお話をうかがうことになっている。
なんとなく、最上階のバルコニーへと足が向かった。ひとり欄干にもたれて、ぼんやりと夜景を眺める。月光と魔光灯が交じり合う青白い輝きを浴びながら、春の夜気を孕んだ庭園の花々は、夜風にそよいで気だるげに揺れていた。
(……なんか、疲れちゃった)
今日は、色々なことがありすぎた。これから、どうなるんだろう――と考えかけて、すぐに思考を止めた。
(べつに何も変わらないわ。誰が夫でも、どうせ〝お飾りの王妃〟なんだから)
そう。私は、加護の乙女という名の駒に過ぎない。
加護の乙女が王妃になれば、それだけで大陸中に女神の祝福が満ちて飢饉や災厄が減るらしい。裏を返せば、王妃という名の置き物だ。この国の政治的な采配は国王に集約され、王妃に実務の権限はない。人々の心の支えとして、優雅に笑って玉座に座るだけ――それが、私。
そんなこと、子どもの頃から分かっている。分かっているのに、ふとしたときに虚しくなる。
「……〝照らせ〟」
左手の祝印を見つめて呪文を唱えると、淡い光があふれた。心が乱れそうなとき、私はいつもひとりきりで光を灯すことにしている。女神の光は、私の拠りどころだから。
呼吸が整い、清らかな光がそっと夜闇に溶けていった――そのとき。
「きれいだ」
不意に、背後から声がした。振り向けば、バルコニーの入り口に人影が立っている。
「……国王陛下?」
一瞬、別人かと思った。長い髪を結わずに流している姿を見たのは、初めてだから。夜風に遊ぶ黒髪が、細やかな光を浴びてさらさらと揺れている。柔らかな室内着は長身の体に沿って流れ、昼の厳粛さを脱ぎ捨てたように危うげな色香を滲ませていた。
「こんばんは、エヴァンジュリン嬢。君もここにいたのか」
柔らかな声とともに、こちらに歩み寄って来る。
「本物の女神が現れたかと思った。目を奪われたよ」
「……」
気づけば、陛下はすぐ目の前だ。同じ欄干にもたれて、淡く笑っている。
「どうした?」
「失礼いたしました。ご公務のときとは、かなり印象が違うので」
「ああ、よく言われる」
月明かりの下の美貌は、一国の王というよりミステリアスな吟遊詩人のようだった。
「今日は災難だったね。せっかくの誕生日だったのに」
(え……)
つい、声が漏れそうになった。まさか、誕生日のことまで気に留めてくださるなんて。
「おめでとう。今度、何か贈るよ」
「お気遣いありがとうございます」
驚いた。ランス殿下からは、誕生日なんてまともに祝われたことがなかったのに。兄弟でこんなにも違うものなのね。絶世の美貌に加えてこの気配り……グラディウス陛下は、さぞやモテるに違いない。
(……そういえば、『遊び人だ』という噂があったわね)
小耳に挟んだ女官の噂話では、グラディウス陛下は女性関係に相当だらしないと聞いたことがある。独身なのを良いことに、夜ごと城を出て娼館に通い詰めているのだとか。敵対派閥による情報操作かもしれないし、真偽のほどは分からないけれど……嫁ぐとなると、多少は気になる。
(そもそも陛下は、あのランス殿下のお兄様だものね。色々やらかしていても、ふしぎはないというか……)
ガッカリ感で胸が埋まりかけていたそのとき、陛下は肩を揺らしてくすりと笑った。
「エヴァンジュリン嬢? 私は今、ずいぶんと不名誉な想像をされていたようだ」
紫の瞳が、私の心を見透かすように見つめてくる。思わずどきりとしてしまった。
「いえ……私は何も」
「そうかい?」
やっぱり、勘の鋭い方なのね。この洞察力があればこそ、陛下は内政・外交の様々な課題を解消して、国を導いてきたのだ。それを加味すれば、遊び人であってもなくても問題ないのかもしれない。
そう思い直し、私は居ずまいを正した。
「陛下。舞踏会では窮地をお救いいただき、誠にありがとうございました。あなた様の隣に立つにふさわしい王妃となるよう精進いたします」
「そのままの君で良いのに」
――え?
ふわりと、陛下の長い指が私の髪をひと房掬った。
「そのアイスブルーの瞳も白銀の髪も、気高さを映す鏡のように美しい。私は、ありのままの君でいてほしいと思うよ」
もしかして、私、口説かれている? ぽかんとしていると、陛下は掬った髪のひと房に口づけを落とした。
「まったく、ランスは君の何が不満だったのだろう? 私なら、一生を賭して君だけを想うのに」
(……うわぁ。これって、遊び人確定なんじゃない?)
とろけるような甘い言葉と仕草の数々は、いわゆる遊び人ムーブというものなのでは? なのに粘つきがなくて、誠実そうに見えるからふしぎだ。妙に居心地の悪さを感じて、私は一歩後ずさった。
「陛下。どうか私のことは、お気になさらず」
「というと?」
「無理にお優しくしてくださらなくて、大丈夫です。私は王妃としての役目をきちんと果たしますので、ご安心ください」
寵愛なんて求めないし、陛下が誰と愛し合おうと私は気にしない。なのに陛下は、なぜか憂えるような瞳で見つめてきた。
「悲しい瞳だな、エヴァンジュリン嬢。色々なものを、最初からあきらめている顔だ」
そんなことはありません。そう応えようとしたけれど――。
「君は、自分を〝駒〟に過ぎないと思っている。違うか?」
――それは図星だ。私は、加護の乙女という名の駒。だから、こくりとうなずいた。
「……陛下は本当に鋭いお方ですね」
「いつか、君が心から笑えるように。そのとき、私が隣にいられるように。女神に祈ろう」
陛下は、静かに言葉を重ねた。
「エヴァンジュリン嬢。私は君を、ただの駒で終わらせたりはしない」
静かに言い切る声だった。どう答えるべきか迷っていると。
「グラディウスと呼んでくれ。私も、君を名で呼ぼう」
陛下は静かに歩み寄り、私の左手を取った。その場でひざまずき、次の瞬間手の甲に柔らかな感触が触れた。女性の左手への口づけは、求婚の意思を示す動作である。
「君の善き伴侶となることを誓う。末永くよろしく――エヴァンジュリン」
(いえ。そんな重たい誓いを、真顔でおっしゃられましても……)
――翌朝。
朝食への同席を求められた私は今、陛下とふたりきりで長いダイニングテーブルを囲んでいる。香り豊かな紅茶を口にしたところで、陛下が静かに切り出した。
「君にこれからのことを話しておこう。君の夫がどちらになるか――つまり次期王位について、私とランスで争うことになる」
「はい」
「結論から言えば、勝敗は議会で決まる。議員の過半数を得て、法改正を通せば私の勝ちだ。そうでなければ、ランスが次の国王となる」
私は息を呑んでいた。まだ、ランス殿下の失脚が決まったわけではないのだ。
「妾妃の子である私は本来、期限付きの王に過ぎない。だが、今回の一件は状況を変えるに足る事案だ」
ランス殿下の婚約破棄。それも大勢の賓客の前での愚行。あれでは、王としての資質を疑われても当然だ。
「議会は割れている。私を支持する〝新王派〟と、ランスを――いや、ランスの母であるマグダレーナ殿を中心とする〝前王妃派〟との力関係は互角だ」
この国の貴族は、大きく二つの派閥に分かれる。
旧勢力である前王妃派の歴史は古く、浪費と癒着の温床になって赤字を垂れ流してきた。対する新王派はグラディウス陛下の即位からわずか七年の間に、目覚ましいまでに力を伸ばし続けてきた改革勢力である。
「前王妃派は、何があってもランスを王に据えようとするだろう。そして新王派は、私の続投を望んでいる」
グラディウス陛下は、短く息を継いでから私に尋ねた。
「エヴァンジュリン。君は、どう思う?」
「……私、ですか?」
思わず問い返してしまった。陛下は真剣な表情で、ゆっくりとうなずく。
「ああ。法を変えてまで私が王位を預かるべきか。それとも、従来の法に従いランスが王となるべきか。遠慮はいらない、次期王妃としての率直な意見を」
率直な意見を。と問われた瞬間に、胸がとくんと鳴った。
……そう。陛下は、こういう人だ。ランス殿下の婚約者だった頃から、私に意見を求めてくることがあった。臣下の意見が割れたとき、ふと、私を見つめて問うのだ――『エヴァンジュリン嬢、君はどう思う?』と。
この国は古来、女性に政治の意見を求める風潮がないというのに。ランス殿下はいつも『エヴァンジュリンの発言など無用です』と遮ってきたけれど、陛下は譲ろうとしなかった――『国の母となる女性が声を上げるのは当然だ』と。
そういうとき、私は内心、嬉しかった。いるだけで良いお飾りじゃなくて、ちゃんとひとりの人間として意見を求めてもらえたから。
だから今回も、私はきちんと自分の意見を述べたいと思った。
「私は、グラディウス陛下の治世が続くべきだと思います」
まっすぐに見つめ返して、陛下にそう告げた。
「昨日のランス殿下の発言撤回を認めれば、大陸諸国に『女神信仰の中枢であるログルネーテ王国が女神を侮辱した』という印象を残すことになりますので」
それに――と、私は付け加えた。
「我が国にとって、グラディウス陛下が王であることは大きな利点です。歴代王の赤字財政を、わずか七年で立て直されました。あなた様でなければできないことです」
「ありがとう」
陛下は、頬を淡く染めてはにかむように笑った。……その表情は、なんだか意外で。年齢よりもずっと幼くて、少しかわいく見えてしまう。
(こんな顔もする人だったのね)
「君がそう言ってくれるなら、私も胸を張って議会に臨める」
席を立った陛下は、長いテーブルの横を歩いて私のすぐそばまでやってきた。
「私の実績を評価してくれて光栄だ。――これからは、男としても君の評価をもらえるように努力しよう」
にっこり笑って、私を見つめた。
……あらあら。やっぱり朝から色男でいらっしゃるのね。私は反応に困りながら、静かに紅茶を口に含んだ。
――ここは、王宮内の議事堂だ。
半円形の階段席に、議員を務める貴族たちがずらりと並んでいる。今回、私は特例として陛下の隣席での傍聴を許された。まだ王妃ではないけれど、王妃内定者としての扱いである。
やがて、議長が開式の槌を鳴らした。
「これより本議会を開会する」
議長の声が響き渡り、場に緊張感が張り詰める。
「本日の第一議題は、次期国王の件である。現法ではグラディウス陛下の退位が定められているものの、ランス殿下の昨日の発言を受けて、廃太子となった場合――」
そのときだった。
「お待ちくださいませ、王太后様!」
「ええい、おだまりなさい‼」
けたたましい叫び声とともに、バン! と弾けるように扉が開いた。深紅の固まりが嵐のように乱入してくる。
議員たちの目が一斉に注がれた――。
「法改正など、わたくしは絶対に認めませんよ‼ ランスの婚約破棄の撤回を、ただちに承認なさい!」
ぅわあ……。と、思わず品のない声が漏れそうになった。
宝石をこれでもかと飾り立てた豪華絢爛な五十代前半の貴婦人。赤いドレスに負けない気迫で、香水の匂いが離れた席の私の鼻にまで突き刺さってきた気がした。甲高い声を張り上げるこの貴婦人、彼女こそが――。
「この国の王は、ランス以外にありえないのだから‼」
ランス殿下の実母であり前王妃、そして現在は王太后として権勢を握るマグダレーナ様なのである。
――王太后マグダレーナ・ログルネーテ。
最有力貴族のひとつディキセニア公爵家出身で、派手好きの激情家。王太后――つまりは引退済みの身なのだが、社交と人脈を駆使して今なお絶大な影響力を誇っている。気に入れば寵愛、気に入らなければ病むまでいびり倒す。結果、侍女と護衛の離職者は数知れず、歴代王妃ワースト一位だとか。
そして彼女は、グラディウス陛下をあからさまに嫌っている。即位のときも徹底抗戦していたが、最終的には抗い切れずに離宮に退いた。とはいえ今なおお気に入りの貴族を侍らせて、贅を尽くしたお茶会三昧だとか。
ちなみに私は〝生意気な小娘〟認定されているらしく、お茶会に招かれたことは一度もない。大変ありがたいことだ。
「王太后様。どうかお静まりを……」
「黙らっしゃい‼」
声をかけてきた議長にびしり‼ と人差し指を突き立て、マグダレーナ様は叫んだ。それからギロリと音がしそうな眼差しでグラディウス陛下を睨めつける。
「陛下! 法をねじ曲げるなど、このわたくしが許しません。私利私欲にまみれた悪行ですことよ⁉」
「おやおや」
烈火のごときマグダレーナ様とは対照的に、陛下の態度は実に涼しい。
「あなたの息子が自滅したのです。私はただ、あと始末をしているだけですが?」
「ふんっ、白々しい。あなたがランスを嵌めたくせに‼」
陰謀論めいたことを言い出したマグダレーナ様に、全員が視線を注いだ。
「ランスが字を読めなかったのは、あなたの責任でしてよ?」
……ちょっと。
幼児教育のクレームみたいになってますけど?
唖然とする議員たちの視線をものともせず、マグダレーナ様は気炎を吐き散らし続けた。
「ランスが神聖古語を読めないと知りながら、わざと放置していたのでしょう? エヴァンジュリンの価値を伏せていたのね⁉ だからランスは、婚約破棄などという過ちを――」
この人、正気なの? 本気で言っているのなら、あまりにも責任転嫁だ。
一拍の間を置いて、議員席から「……そうだ」「王太后様のおっしゃる通りだ!」という声がパラパラと上がり始めた。
陛下は、軽く肩をすくめる。
「理解に苦しみますね。ランスに神聖古語を教育したのは教皇でしょう? 私も同じく、教皇から習いましたが」
神聖古語は教皇・現国王・次期国王だけに継承される特別な言語だ。教皇が、歴代の王に授けるものだと聞いている。
「あなたの息子が字を読めない責任を問うのなら、教皇にどうぞ? もっとも、ランス自身の怠慢を罰するのが先でしょうが」
ふふ、という忍び笑いが新王派の議員席に広がっていく。しかし、じろりとマグダレーナ様に睨まれ、笑い声のさざ波が止まった。
「腹黒い男。あなたはそうやって、自分の手を汚さず思い通りに運ぼうとする。一代限りとはいえ罪人アリシアの血を引く男が王だというだけでも異常なのに、王位に執着するなんて!」
その名が響いた瞬間に、議場は凍り付いた。ざわめきすら湧かず、どの派閥の議員も気まずく押し黙っている。
――妾妃アリシア。
公の場で口にしてはならない、禁忌の名だ。
かつて国を揺るがした大罪人であり、グラディウス陛下の実母。その事件は今なお語られず、彼女の名を出すこと自体が暗黙のタブーとされている。それをマグダレーナ様はこの場で、陛下に突き付けてきたのだ。
「あら。だんまりですか、陛下? 何かおっしゃったらいかがかしら?」
煽るようなマグダレーナ様の声。議事堂が、不穏な空気に満ちていく。
――と、そのとき。
「ははははは!」
グラディウス陛下は、いきなり大きな声を立てて笑い出した。……こんなふうに笑う姿は、初めて見る。
「私の義母上は、相変わらずかわいらしいお方だ!」
義母上と呼ばれ、マグダレーナ様の顔が引き攣った。
「話をすり替えるのがとてもお上手でいらっしゃる。昔話なら後ほどうかがいますよ。ですが残念ながら、今は公務中でして。おしゃべりなら、お茶会でどうぞ? マダム」
「……っ!」
グラディウス陛下の笑みは、完璧なマナーに裏打ちされた〝攻撃〟だった。前王妃派の貴族たちでさえ、陛下に呑まれているようだ。
「そもそもランスが字を読めようが読めまいが、本質はそこですか? エヴァンジュリンが加護持ちだと知っていたら、婚約を破棄しなかった? つまり、ただの令嬢なら切り捨てて良いとおっしゃるのか」
「っ、それは……」
「婚姻を軽んじる男は王に相応しくありません。私なら加護の有無にかかわらず、エヴァンジュリンを愛します」
そう言うと、陛下は隣席にいた私を立たせて肩を抱いた。
(……っ、陛下⁉)
いきなりのことに頭が真っ白だ。議場の視線を一斉に浴びて、頬が勝手に熱くなる――。
「いきなりで、すまないね」
陛下は私の耳元でそっと囁くと、ぱちりとウィンクを落としてきた。そして私の肩を抱いたまま、議場に声を響かせる。
「女神アルセナは愛と真実の女神だ。伴侶をすげ替えるような不実な男を、果たして祝福するだろうか?」
ざわり、と空気が大きくうねった。
「……たしかに陛下のおっしゃる通りだ」
「非常識だな、婚約破棄は」
まったくもっての正論に、新王派はおろか前王妃派の議員席でもうなずく姿がちらほら見えた。マグダレーナ様は、怒りで顔を真っ赤にしながら反論しようとした――が。
「議長。義母上の議会参加の手続きは取っているのか?」
「いえ……おそれながら」
「いかんな、それは問題だ。参加権のない前王妃が、手続きなしで乱入とは。お散歩ついでに議会に寄るのはご遠慮ください。それとも迷子ですか?」
どっ、と失笑が湧いた。
「くっ……!」
屈辱に顔を染めるマグダレーナ様は、赤いドレスのせいで熟れたトマトに見える。
「ご退席いただけますね、おかあさま?」
「っ――!」
わざとらしいまでの笑顔で言われ、マグダレーナ様は歯を食いしばっていた。
「み、見てらっしゃい! 思い通りにはさせませんからね‼」
捨て台詞を残して退場していったマグダレーナ様を見送ると、陛下は議員たちに向き直った。
「さて諸君、余興は終わりだ。場が温まったところで議論を始めよう」
その後、王位継承の法改正に関する審議が行われたが、結論が出ることはなかった。そもそも議題は一度きりの議会で決着するものではない。各議員が持ち帰り、派閥で調査と調整を重ねて幾度も協議を続けていくのが常である。
決着がつくまで、早くても半年。今日の議論はあくまで、これからの戦いの序章に過ぎない。
「これにて、本日の議会を閉会する」
議長の声を聞きながら、私は陛下を見つめていた。
(この人、なかなか曲者ね……)
これまで持っていた陛下のイメージが、どんどん更新されていく。執務室や王室行事での硬質な表情。昨夜バルコニーで見たミステリアスな顔。そして政敵の前では、飄々と振る舞う姿。国王グラディウスには、いくつも顔があるらしい。
……結構、おもしろい人なのかもしれない。
「ああ、もう! 忌々しい‼」
前王妃マグダレーナは、奥の宮の一室――息子ランスが謹慎中の部屋へと、荒々しく踏み入った。
「母上……」
ランスがびくりと肩を震わせている。マグダレーナは荒い息をつき、鋭く息子を睨めつけた。
「ランス! すべてあなたのせいですよ⁉ あなたが勝手に婚約破棄などするから、王位が脅かされたのです‼」
「も、申し訳ありません。で、でもエヴァンジュリンとの婚約のことは、母上も『好きになさい』と……」
「なんですって?」
「ひっ。いえ、その……!」
マグダレーナに威圧され、ランスは情けなく慌てふためいている。マグダレーナは苦い顔で、ぎりりと奥歯を噛んだ。
「それにしても、まさかエヴァンジュリンが加護の乙女だったなんて……」
数百年に一度、不定期に誕生する伝説の乙女。そんなものが息子の代に現れるなんて、想定できるはずがない。だからランスが『婚約者をすげ替えたい』と言ってきたときには、マグダレーナは反対しなかった。ヴェルトワーズ侯爵家の長女は生意気だが、次女は頭が空っぽだから従えやすい――その程度にしか考えていなかったのだ。
だが加護の乙女である以上、エヴァンジュリンが王妃になるのは決定事項。二千年の掟を覆すことは、さすがのマグダレーナにもできない。
「こ、これからどうしましょう……母上」
「大丈夫よランス。わたくしが、あんな男の思うようにはさせないわ」
――グラディウス。あの男は心底気に入らない。母親も許せなかった。正妃である自分を差し置いて、前王に寵愛されたあの女。古参貴族ファーレン伯爵家の華、誰もがうらやむ絶世の美女アリシア!
(……わたくしったら、冷静になりなさい。あの女は、もういないのだから。今はグラディウスを潰すことだけに集中しなければ)
マグダレーナは目を閉じて息を整えると、再びランスを見つめた。
「ランス、お前はもっと堂々となさい。次の王はお前です。グラディウスなんかに引けを取ったら、許しませんよ」
「……はい」
「ほら、その情けない顔をやめろと言っているでしょう‼ まったく、みっともない子ね。どうしてわたくしに似なかったのかしら⁉」
「は、母上ぇ」
ランスは青ざめながら直立し、キリッとした表情を作った。
「そうよ、それでいいの。まさに王者の風格よ」
ランスはとても見栄えが良い。頭の中身は多少アレだが、黙って立っていればグラディウスなんかに見劣りするものか。
「ともかく、王位継承争いに敗けるわけにはいきません。グラディウスが実績を盾にするなら、お前も相応の実績を積めばよいのです」
「実績?」
「ええ。実績さえあれば、正妃の子であるお前が負ける理由などないのだから」
マグダレーナはしばし考え込み、やがてにんまりと唇を吊り上げた。
「そうだわ。謹慎を解かれ次第ベル=ツェルネ王国へ行きなさい」
「ベル=ツェルネ王国?」
ランスは、怪訝そうに眉を寄せた。
「南方大陸のベル=ツェルネ王国ですか? 片道でも一か月以上かかりますよ」
「通常の航路ならば、でしょう? 政府専用の特急帆船を使えば、二週間程度で済むわ」
「それはそうですが。なぜ、わざわざベル=ツェルネ王国に?」
「あの国には、あの女がいるからよ」
そこまで言うと、ランスもぴんと来たらしい。
「ああ……あの女、ですね」
「そう。あの女」
マグダレーナは、仄暗い笑みをこぼした。
(どんな手を使ってでも、ランスを王にしてみせるわ。この国の王位は、わたくしの子のものなのよ‼)
