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元公爵令嬢フェリシアは前を向く ~婚約者がお姉様に恋してしまったので、500年後の世界で幸せになります~
著者:ごろごろみかん。 イラスト:コユコム
1章 お姉様に恋した、私の婚約者
「……すまない。彼女が、私の【運命】なんだ」
とても苦しそうな顔と声で、彼は言った。まるで、断罪される罪人のようだ。
その言葉を受けて、私は、といえば─。
(……【運命】、つまり、彼の運命の人が……)
私の、お姉様。少し、いやかなり、びっくりして言葉が出てこない。沈黙を拒絶と受け取ったのか、私の婚約者であるフェリックス様が、私に頭を下げた。
「すまない。だけど、これも仕方のないことなんだ。私は、運命に出会ってしまったから」
王族─私の婚約者であるフェリックス様は、王家唯一のご子息で、王太子という地位にある。
そんなひとに頭を下げさせるわけにはいかない。私は慌てて彼に言った。
「やめてください! 顔を上げてくださいませ!」
─運命。それは互いの手の甲に揃いの紋様が浮かぶというもの。それが現れると、ふたりは神に祝福された恋人たちということになる。それまでの恋人も、婚約も、婚姻関係だって、【運命】制度の前では強制力を失う。
それくらい、この【運命】制度というのは強力で、絶対的なものだ。
だけどこの【運命】制度。滅多に揃いの紋様が現れることはなく、この国、ツァオベラー国でも長い間迷信だと言われていた。私自身、まさか当事者を目の当たりにすることになるとは思わなかった。それも、その相手が私の婚約者。
(ええと? つまり……?)
私は、額を押さえた。私とフェリックス様は婚約関係で……。その私の婚約者であるフェリックス様の運命の相手が……私のお姉様?
(どんな泥沼劇よ!! 昼ドラ!? 昼ドラなのかしら!?)
そう思った瞬間、私はすぐに首を傾げることになる。
(……あら? 【昼ドラ】って、何?)
当然のように思い浮かんだ思考に首を捻っていると、フェリックス様の声が聞こえてきた。それにハッとする。
(あ、まだ続いていたのね……)
フェリックス様は懸命な顔をして、必死に私を説得しようとしていた。
「私も、あなたを愛する努力はしてきた。でも、無理なんだ、もう。【運命】が現れた以上……私は、彼女を優先させなければならない。そうしたいと、本能が言っているんだ」
(獣か??)
理性のない動物?? ていうか、それってもはや洗脳とかそういう……。そこまで考えて私は慌てて思考を打ち消した。
(何、今の! 不敬にも程があるわよ、フェリシア・フレンツェル!!)
フェリックス様は、【運命】に出会われたのよ。素晴らしいことじゃない。素敵なことだわ。
だから、私は祝福しなければならない。我が国の王太子殿下が、【運命】に出会われたのよ。国民として祝わなければならないわ。たとえそれが、王太子殿下の婚約者が私で、彼の【運命】が、私のお姉様だったのだとしても─。慌ててそう思おうとしたところで、彼が、私の名を呼んだ。
「……フェリシア?」
「─」
(フェリ……シア)
それは、私の名前。その瞬間、濁流のような勢いで、見知らぬ過去が脳内に溢れ出す。
見知らぬ世界、見知らぬ光景、この世界とは異なる常識─。思わず息を呑んだ。
(これは、前世の、記憶……?)
その全てを、思い出したわけではない。それでも、その一部を思い出した私は、現在、絶賛混乱中だった。
「フェリシア、どうしたんだ」
「いえ……あの、私」
視線をあちこちに彷徨わせる。
私─私は、フェリシア・フレンツェル。フレンツェル公爵家の次女で、現在十八歳。
うん、大丈夫。間違いはないわ。記憶に混濁はない……はず。心の中で頷いていると、ぽつり、彼が言った。
「やっぱり、許せそうにない、か」
その言葉に、ハッとして顔を上げた時。背後から、鈴を転がすような声が聞こえてきた。
「フェリックス様……! フェリシア……!!」
か細い、糸のような声。逆立ちしても、側転しても、私にはそんな声は出せないだろう、弱々しくも、儚い声。その声の主は─。
「お姉さ─」
「アグネス!! どうして来てしまったんだ! あれほど寝ているようにと、言っただろう!?」
私の声は、私の婚約者によって遮られた。
私の二つ年上、アグネス・フレンツェルはフレンツェル公爵家の長女だ。
(アグネスお姉様は─)
まるで、【桜のようなひと】。
前世の記憶を取り戻した今だからこそ、私は彼女をそう表現する。アグネスお姉様は、儚げで、美しく、【佳人薄命】を絵に描いたようなひと。実際、お姉様は生まれつきの持病があり、病弱だ。幼少期から、二十歳まで生きられるかどうか……と言われていた。
そして、彼女は現在、二十歳を迎えている。いつ終わりを迎えるかもわからない命を抱え、お姉様は毎日を必死に生きているのだ。そんなお姉様を、私はとても心配していたし、慕っていた。
─だけど。あの日、私は見てしまった。
その時のことに思いを馳せていると、アグネスお姉様が私たちの元に駆け寄ってきた。雪のように白い髪に、真っ白な肌。薄青の瞳は、夜明けを知らせる紅碧色の空によく似ている。どこもかしこも白いお姉様。
汚れを知らない天使のよう、とは誰が言った言葉だっただろうか。【まあまあ可愛い】程度の私と並ぶと、その差は歴然。
私の薄桃色の髪は珍しいが、ただそれだけだ。同色の瞳も『あら、素敵ね』止まりだ。少なくとも、私は遠目に見てハッと息を呑むような美少女ではなかった。おじ様方に囲まれていれば「おやフェリシアちゃん可愛いねぇ!」と言ってもらえるだろうが、お姉様が私の隣に来れば、途端、彼らはその美貌に息を呑むことになるだろう。
私も、【可愛い】【可憐】といった表現が似合う少女ではあると思う。
だけどそれは良くて【上の中】。お世辞抜きで言うなら【中の上】止まりの娘なのである。お姉様は、上の上。まるで─そう、白雪姫のよう。前世を思い出した私は、彼女の容貌をそう評する。
「フェリ、シアっ」
お姉様は、息を切らして私の名を呼んだ。少し走っただけで、顔が火照って、息が上がってしまう。今だって、無理をしているのだろう。顔が真っ赤だ。
そもそも彼女は、ベッドから出られる日のほうが圧倒的に少ない。その彼女が、無理をしてまで、ここまできた─。そこで、私はハッとした。ここは、王城の中庭。
王族専用区域の庭だ。
王族の許可を得たものしか、立ち入ることは許されない。フェリックス様の驚き様を見るに、お姉様は……。
(まさか、許可もなく来たの!?)
あまりの行動に驚くやら唖然とするやらで、結果的に沈黙することになった私をよそに、彼女はフェリックス様に抱きついた。
そして、くるりと私のほうを振り向いた。長いまつ毛に縁取られた(本当にまつ毛が長い。恐らくマッチ棒が載る)瞳をじんわりと滲ませた。ぽろり、と零れたのは。
「ごめんなさい、ごめんなさい、フェリシア……どうか許して!!」
彼女は、涙を零しながらそんなことを言った。大声で。
(…………は!?)
突然のことにびっくりして何も言えずにいると、お姉様はしゃくりあげながら弁明した。
「わ、私、まさかフェリックス様とっ、運命、だなんて……ッゲホ、ゴホッ!」
「アグネス! 無茶をしてはだめだ。大丈夫、フェリシアもわかってくれるはずだよ」
「でも……フェリックス。私は……私は、妹の婚約者を……! っふ、ぅ……っうう」
お姉様は嗚咽をもらし、その場に崩れ落ちた。その華奢な体を、彼が抱きとめる。
(………私は、何を見せられているのかしら?)
なぜか、私だけがひどく冷静になってしまう。茶番劇にしか見えないんだけど、空から盥でも降ってくるの?? 思わず空を仰いでしまう。当然、何も無い。
空は綺麗な青である。爽やかで気持ちのいい青空。
これで「あなたは悪くないよ」「いや私が悪いの」をひたすら繰り返すバカップ……恋人たちの姿がなければ、本当に気持ちがいいくらいなのだけどね! 盥が降ってくるはずがないのに思わず確認してしまったのだから、実は私も冷静にはなれていないのかもしれない。
(どうすんのよこの惨状。どう収拾つければいいのよ……)
いやいやお姉様のほうを見れば、フェリックス様は、お姉様の背をゆっくりと摩っていた。その顔はひどく険しい。ふと、彼がちらりと私に視線を向けた。
「─」
目が合って、息を呑む。なぜなら、彼の目は─私を責めていたからだ。
【アグネスがこんなに辛そうなのに、まさか私たちを責めようなんて思わないよな?】
という、無言の圧力を感じる。お姉様の登場で、私は反論する隙すら与えられなくなった。
「…………」
あの、待って。もはや突っ込むところが多すぎて、私は思わず『タイム!!』と言いそうになった。タイムって何よ。前世でよく言ったやつだわ。
ついでに手のひらも前に突き出したい。混乱した思考の中、ふと、私はそこで気がついた。
(……あら?……私、ここまでまともに話せてないんじゃない!?)
唯一話せた文章は、『やめてください! 顔を上げてくださいませ!』のみ。それ以外は、『いえ』と『あの』と『私』の三語だけである。文章ですらない。私は無言になった。
(……だいたい、よ?)
フェリックス様は、話があるから、私をここに呼び出したのよね?
もうこの状況で話し合いとか無理でしょ〜〜……。だって未だにお姉様、泣いてるし(なんで泣いてんの?)
私は思わずため息を吐いた。それはかなり小さな吐息だったのだが、お姉様の肩が、びくりと大きく跳ねる。
「ご、ごめんなさっ、フェリシア……!!」
そして、また彼女は泣きはじめた。打たれ弱いのも程々にしてくださる……!? お姉様は、蝶よ花よと育てられたので、否定されることに慣れていない。というか私はまだ否定すらしていないのだけどね。まともにここまで喋ることすらできてませんからね!!
お姉様の涙交じりの謝罪を聞いてか、フェリックス様が私を責めるように睨みつけてきた。話し合おうという意思を感じないのだけど、話し合いはどこにいってしまったの??
「フェリシア。私は、あなたを愛せない」
奇遇ですね、私もです。
……という言葉は、ぐっと呑み込んで。
「運命の人に出会われたからですか?」
にっこり笑って尋ねた。フェリックス様は、鷹揚に頷いた。
「ああ、そうだ。私は、運命に出会ってしまったんだ。わかるだろう?」
いや、わかりたくないですわ〜〜!! 頭ではもちろんわかってる。なぜなら、私は前世の記憶を思い出しただけで、今世の記憶を完全に喪失したわけではないのだから。
それでも、常識を常識として理解できるか、といったら話は別なのよね……。フェリックス様は、憂い顔で話を続けた。何なのこの独壇場は。リサイタルを勝手に開くな。
「彼女が……アグネスこそが私の運命なんだ。仕方ないんだよ。これは……神の定めた運命なのだから。すまない、フェリシア。私を許してくれ」
「フェリシア……! ごめんね、ごめんなさい。私、あなたのお姉様なのに……ひ、う、ううっ」
フェリックス様の後に続くお姉様の嗚咽。ハイハイ茶番劇ですね、茶番劇ですわ。
手を叩いて「はいカット─!!」って言って差し上げたいくらい。前世の知識をご存じない彼らは、映画監督という職業をそもそも知らないだろうけど。私はそっと、自身の顎に指先を数本押し当てた。
「我が国の王太子殿下が【運命】に出会われたのですもの。もちろん、私だって祝福いたしますわ」
にっこり、私は微笑んだ。私はそこそこ可愛い顔立ちなのもあって、こうして微笑むと邪気なく見えるのだ。それを私は熟知している。自分の顔ですもの。この十八年間、何度となく鏡と睨めっこしてきたもの。
「だけど、王太子殿下? そして、お姉様。あなたがたは【運命】制度で強制的に想いが通じ合った……ということですの? それはあまりにも寂しいと私は思いますの」
「ど……いう」
そこで、お姉様がヒュッと喘鳴音を零した。
「アグネス!!」
フェリックス様が悲鳴のような声でお姉様を呼ぶ。
「…………」
青白い顔でぜえぜえ荒い呼吸を繰り返すお姉様と、懸命にその背をさするフェリックス様。おふたりを見て、私は─。
(いや!! ものすごく、病弱!!)
どうしてここに来たの!? どうしてここに来たの!!(二回目)
混乱した私は、今度こそパンッと手を叩いた。そして、状況の収束をはかって、声をかけた。
「このお話はまた後ほど!! 今はお姉様をベッドに戻すほうが先決ですわ!」
「あなたが、アグネスを興奮させたからっ……」
つい、といった様子でフェリックス様が言葉をこぼす。
(は…………はああぁ!?)
思わず、そんな彼を睨みつけそうになって─寸前で、私は取り繕うように微笑を浮かべた。
「そうですわね。次はお姉様がいない時にお話しましょう、殿下。またお姉様が体調不良になったら大変ですから!!」
「それは」
「嫌……!」
お姉様がいる手前、フェリックス様は頷きにくいのだろう。
か細い声でお姉様が叫ぶが、ここは聞こえなかった振りをさせてもらう。
「誰か!! お医者様を呼んで!! 馬車の手配をお願い!!」
大声で叫べば、王族専用区域といえど、流石に近衛騎士と、侍女が慌てた様子でやってきた。
苦しそうに咳き込むお姉様と、それを慰めるフェリックス様。お姉様の病弱─お体が弱いのは、同情するし、不憫だとも思う。
だけど……だからといって、それを免罪符に全ての理不尽を見過ごすつもりも、それを許容する気もなかった。お姉様はフェリックス様に支えられ、庭園を出ていった。私も、彼らとは反対方向に足を踏み出した。
「フェリシア」
その時、背後から名前を呼ばれた。振り向くと、フェリックス様が、その紺青の瞳を私に向けていた。それは随分冷たく、そして厳しい視線だった。
「……はい」
フェリックス様が私を呼び止めたことで、お姉様も苦しそうに咳き込みながら顔を上げる。
フェリックス様は、私をじっと見つめ、静かに言った。
「彼女は、私の【運命】だ。互いに紋様が現れたのがこのタイミングだっただけで……もっと早くに出現する可能性だってもちろんあった。私は、アグネスと……いや。私は、生まれた時から、この命を彼女に捧げているんだ」
「それは……素敵なお話ですわね」
笑みを浮かべたものの、それはものすごい冷笑になってしまったのだろう。
私の顔を見たお姉様が、ひゅっと息を呑んだから。
「……それでは、フェリックス様。ごきげんよう。お姉様をよろしくお願いします」
私はドレスの裾を摘んで、淑女の礼を取った。顔を上げ、今度こそにっこりと、邪気のない笑みを浮かべる。
「お姉様、邸でまた会いましょう。私は、お父様に報告して参ります」
「フェリシア─」
お姉様が、何か言いかけようとしたけれどそれは聞こえなかったことにして。
私はくるりと背中を向けた。これ以上この場に留まって、お姉様の体調不良の原因にされてはたまらないからだ。アーチをくぐって庭園を抜け出して、回廊に戻る。
思い出すのは、フェリックス様─私の、婚約者の言葉。
『私は、生まれた時から、この命を彼女に捧げているんだ』
(……そもそも)
私は、回廊を歩きながら考える。
(【運命】の紋様が出現する前に─ふたりとも、恋に落ちていたわよね?)
だって、私は見てしまったの。
お姉様に恋した、私の婚約者の姿を。
私の婚約者に恋した、お姉様の姿を。
あの時のことを、私は忘れられない。
ふたりが恋に落ちた、その瞬間を。
☆
マグノリアの花が散る、ある春の日のこと。その日、お姉様の体調は普段よりも落ち着いていた。だから、お父様が言ったのだ。
『そろそろアグネスも王太子殿下にご挨拶をしなければな』
お父様の言葉に、私も頷いた。お姉様は、病弱だ。
だから社交界デビューもしていない。当然、フェリックス様と面識もなかった。
だけど、いずれお姉様はフェリックス様の義姉になる。フレンツェル公爵家の人間としても、ずっと挨拶をしないというのも体裁が悪い。病弱とはいえ、伝染る類のものではないのだしいつかは挨拶しなければならないとお父様もお母様も考えていたのだ。
それに、お姉様自身、私の婚約者であるフェリックス様に興味があるようだった。部屋から出ることができない彼女は、私の話を興味深そうに、楽しそうにいつも聞いている。
今日あったこと、そこで感じたこと。そこでした会話。天気の様子。私の予定。
お姉様は、取り留めのない私の話を楽しげにいつも聞いてくれる。彼女は、私の婚約者であるフェリックス様の話を聞くとぽつりと言った。
「王太子殿下に……お会いしてみたいわ」
泡沫のような、溶けて消えてしまいそうな小さな声。私が目を瞬くと、お姉様がふっと笑った。さらりと、彼女の白い髪が揺れる。どこもかしこも白いお姉様。彼女が口を開く度、赤がちらついた。
「あなたの婚約者でしょう? 挨拶を、しなければならないわ」
そういう経緯もあり、フェリックス様とお姉様の対面の場が設けられた。
とはいっても、お姉様はやはりベッドから起き上がることはできない。必然、フェリックス様がお姉様の寝室を訪れることになる。私も同席し、彼と共にお姉様の部屋を訪ねた。扉をノックし、声をかける。
「お姉様、フェリックス様がいらっしゃったわ」
すぐに返答はあった。フェリックス様を連れて、私は部屋の中に入る。その時、一際強い風が吹いた。
ざぁ、と春の暖かな風が吹く。お姉様は、窓際のベッドに腰をかけて─私たちを見ていた。
その瞬間、私は見てしまった。お姉様を見た、フェリックス様が─息を呑んだ。
彼は目を見張り、お姉様を見つめていた。頬に、朱が差している。いつも冷たげで、氷のようなひとが。お姉様を見て、その瞳に希望を見たような煌めきを宿し、目を、心を、奪われていた。一目で、彼は恋に落ちたのだと─私は知った。
お姉様に恋した、私の婚約者。お姉様は、ケホケホと空咳を繰り返しながらも私たちを見た。
そして、にこりと微笑む。
「お初にお目にかかります。こんな格好で申し訳ありません……。私が、フェリシアの姉、アグネス・フレンツェルです」
軽やかな声は、柔らかく空気に溶けた。お姉様の言葉を受けて、ハッとしたようにフェリックス様が彼女を見て、挨拶を返す。
「あ、ああ。私がフェリックス・ツァオベラーだ。……あなたがフェリシアの姉君だね。噂通り……お美しい」
その言葉は、よくある社交辞令のひとつだし、定型文のひとつだが─私は、それが彼の本心のように感じた。お姉様は、フェリックス様の言葉に少し驚いたようにまつ毛をはね上げさせた。
そして、恥ずかしげに俯いた。長い白銀のまつ毛が、彼女の薄青の瞳を扇のように覆い隠す。お姉様の頬は薄桃に染まり、紅碧色の瞳は潤んでいた。
その瞬間、確かに彼らは恋に落ちたのだ。ひとが、恋に落ちる瞬間を私はその時初めて見た。
お姉様は、淡い初恋を。フェリックス様は、確かな一目惚れを。
彼らが交わした言葉はごくごく少ないものだったけど、その短すぎる時間を、彼らはとても大事にしていた。それが、私には手に取るようにわかった。
この場で、【邪魔者】は私だ。想い合うふたりを引き裂く障害に、私はなってしまったようだった。
「…………はぁ」
その時のことを思い出した私は、またため息を吐く。
(ひとの心は縛れないもの)
だから、フェリックス様がお姉様に心を奪われたことを、私は責める気にはなれなかった。
それは、お姉様も同様だ。今まで、彼女はフレンツェル公爵家の人間としか関わってこなかった。そんな彼女にとって、外部の人間……つまり、フェリックス様との接触は、かなりの衝撃を伴ったのだろうし、新鮮でもあったのだろう。
フェリックス様は【麗しの王太子殿下】と呼ばれるほどに、整った顔立ちをしている。
切れ長の青い瞳に、研ぎ澄まされた刃のような銀の髪。
一見、冷たそうに見えるが、フェリックス様は目が大きいからか可愛らしい印象も受ける。
目元にかかる程の長さの前髪も、可愛らしさを増す一助となっているように見えた。
総合的に見て、【可愛らしさと冷たさを併せ持つ美青年】それがフェリックス様である。
容姿に反して、彼は声が低い。そのギャップも、彼の魅力のひとつなのだろう。
そして、私との関係は─。
(お察し、完璧なまでの政略結婚……!!)
互いに特別な感情はなく、ただ定められた婚約者だから慣例に従って、定期的な逢瀬を重ねる程度の間柄である。
(……気付いて、しまったのよね)
今でこそ、こんなに冷めきった冷却完了の婚約者同士だが、聞いて驚くことなかれ。
私はこれでも、フェリックス様に憧れを寄せていた時期があるのだ。
(……まあそれも極々短期間で終わりましたけどね!)
恋……を、していれば、わかるのだ。
相手に、気持ちがないことが。相手が、私を見ていないことが。歩み寄っても、彼には見えない壁があって─それを踏み越えることを、彼は許してくれなかった。
(……ううん)
考えて、私は内心首を横に振った。ただ、私に勇気がなかっただけ。
その、見えない壁を壊すほどの勇気が、私にはなかった。結果、私は彼に歩み寄ることをやめ、ドライアイスのような仮面夫婦ならぬ仮面婚約者のいっちょうあがり! 状態である。
他者を拒むような絶対的な見えない壁も、お姉様を見た瞬間、消失したのだ。私が歩み寄ろうとしても、決して消えなかった壁が─一瞬にして。
それが、答え。チリ、と僅かに胸が軋んだ。それは失恋の悲しみ……とか、辛さとか、そういうものではなくて。
ただ、彼と婚約を結んでからの三年間。私が求め、探していたものをお姉様はあっさりと得た。私の今までの努力は、何だったのだろうと……そう、思ってしまったのだ。
意味がなかったんじゃない、とか。無力感、とか。この胸の痛みは─そう、喪失感に、少し似ている。
─と、その時。
考え事をしていたからか、誰かと衝突した。
─ドンッ
「痛っ……!」鼻を強打した私は、その痛みに目の前に星が舞った。
(い…………った!!)
痛い。めちゃくちゃ痛い……! ピンポイントで鼻頭をぶつけたらしい。
けれど、貴族の娘として、地面に踞ることだけは避けたい……!!
結果、鼻を押さえて震える石像と化した私に、頭上から男性の声が降ってきた。
「すまない! 痛くないか!?」
(痛いです!! めちゃくちゃ!!)
そう思った同時、ふと、疑問を覚えた。どうして、このひと─
(私を認識して……る?)
私にぶつかった、ということは私を潜在的に認識している、ということ。普通は、ひとは私を無意識に避ける。そのようになっている。なぜなら、私は─
「急いでいるんだ。僕はこれで」
そのひとは、私を見ることなくその場を去ってしまった。残されたのは、ポカン……とする私ひとり。黒のローブを羽織り、フードを深く被っていたから顔は見えなかった。
だけど、その黄金の髪がフードから零れているのが見えた。声からして、おそらく男性だろう。
(長髪で、金髪の男性……)
心当たりがない訳ではない……けど、今登城している人間に絞ると、その数は随分限られてくる。
(……それに、あの声)
聞き覚えがない。
……あんなひと、社交界にいたかしら……?
…………もしかして。
【不審者】
その三文字が脳裏を駆け抜けた。
(……そうよ!! だって、王城の中なのに黒のローブをすっぽり被って、顔を隠すなんて怪しくない!? 怪しいわ!! 怪しいに決まってる!!)
妙な三段活用を使用した私は、大慌てで周囲を見渡した。急ぎ、騎士を呼ぶべきだ。
そう思って振り返ったところで、予想外の人物がいて、危うく私は仰け反りそうになった。
「っ……!」
そのひと─その男は、私の前に立っていた。彼は、私を見てふわりと微笑んだ。
ぱちぱちと弾けるような煌めきが彼の背後を彩っている。
私は顔が引き攣りそうになるのを必死にこらえて、笑みを浮かべた。
「……ごきげんよう」
「ご機嫌麗しく、レディ・フェリシア。こんなところで会えるなんて思ってもいなかった。これも神のお導きかな」
「ふふふ、ご冗談を」
男の名は、アーノルド・アバークロンビー公爵令息。
……王弟殿下のご子息であり、フェリックス様の従兄弟にあたる方だ。薄茶の髪に、薄青の瞳。キザな話し方に、襟足を長く伸ばし遊ばせているためか、遊び人、というイメージが先行する。
実際、社交界で彼の噂話は事欠かない。火遊びが好きな方なのだ。
その共犯者にされてはたまらない、と私は彼から距離をとっていたのだけど……。
(何でこのタイミングで会うかしらね〜〜!?!?)
私は、アーノルドの背後をさりげなく窺った。
……先程、私にぶつかった男性はもういないようだった。
すでにこの場を離れたのだろう。もしかしたら、アーノルドはすれ違った男のことを知っているかもしれない。
そう思って、私は彼に尋ねた。
「……どなたかとすれ違いませんでしたか?」
「どなたか? それはもしかして、きみの婚約者の話をしているのかな」
ぐっと距離を詰めてアーノルドが言う。流石、女を口説き慣れているだけのことはある。
自然に、彼は距離を詰めるのだ。そのスマートな仕草には感嘆さえ覚える。前世の記憶を取り戻した今だからこそ思うことではあるけれど。
しかし、生憎私はそうした強引さが好きではない。詰められた距離の分だけ、後退した。
「レディ・フェリシア。フェリックス─王太子殿下に【運命】が現れたそうだね?」
「情報が早いですわね。お友達からお聞きになりましたの?」
その友達、とやらも不健全な類なのだろうけど。そんな思いが視線を通して伝わったのだろう。彼が苦笑した。
「きみが思うような仲ではないよ?」
彼が私の髪に触れようとしたので、にっこり笑ってその手を叩き落とした。
馴れ馴れしいのですが??
「失礼しました。とても慣れていらっしゃるように見えましたので、つい。社交界では、あなたと親しい女性の名前が常に囁かれておりますが……もし、事実と異なるのであれば。なぜあなたはそれを許されているのでしょう? 気になりますわね」
「─……」
アーノルドが目を細める。さながら、獲物を見つけた蛇のような目である。
しかし私は捕食される気が全くないので、彼が何か言うより先に、先手を打って言った。
「とはいえ、ひとにはそれぞれ、事情がございますわ。かく言う私にだって婚約者がおります。根も葉もない噂を流される前に、この場は辞させていただきたいのですが」
私がアーノルドを苦手としていることは、彼も十分に理解していることだろう。
なにせ、社交界デビューしてからこの三年、ずっと私の態度はこんな感じだ。
いっそ反感を覚えてもおかしくない程だと言うのに、この男はなぜか事ある毎に私に絡んでくる。よほど、言う通りにならない小娘が物珍しいのだろう。
もっとも、彼が直接私に声をかけてくることは稀だ。なぜなら、私は─
「相変わらず、きみはつれないね。今日は珍しくきみのユニークスキルに邪魔されることなく、声をかけられたというのに」
そう。私の持つ特異魔法。それが、彼が私に声をかけられない原因だ。
先程、男性と衝突して、私が驚きを覚えた理由でもある。この国、ツァオベラー国には特異魔法と呼ばれる特別な力を有する人々がいる。
そのほとんどが、王侯貴族だ。公爵令嬢である私も例に漏れず、ユニークスキルを所持しているのだが─。私のユニークスキルは、
「きみは気配遮断スキルの使い手だ。……だから、私は幸運だと思ったんだよ。珍しく、私はきみを見つけることができたんだから」
私のユニークスキル─それは、気配遮断。
(……いや、めちゃくちゃ地味!!)
前世の記憶を取り戻した今、より一層私は強く思った。
(異世界で、魔法がある……。そして私は前世の記憶がある……となったら!! チート能力が使えるのかも、って思うじゃない!)
それなのに、私にできるのは気配を消すこと……だけ!! 暗殺稼業やってたり、隠密行動する忍びなら重宝したであろうこの能力! 生憎─(と言ってもいいものなのだろうか)今のツァオベラー国は平和そのもの。つまり、私の気配遮断の出番はない。
今のツァオベラーで人気なのは、【水を自在に操れる力】だったり(パレードや行事の際、重宝される)、【花を咲かせる力】だったり(やはりこれも同様で、パレードの時などに役立つ)。
私のような隠密行動に特化した特異魔法は昨今、まっ……たく人気がないのである……。
見た目同様、パッとしない特異魔法なのになぜ、私が王太子の婚約者に内定したのか─。
それには相応の事情がある。そこまで考えた私は、思考を切りかえた。そんなことより、まずは現状をどうにかしなければ。アーノルドを撒い……もとい、彼から離れる必要がある。
私の気配遮断は、【第三者からの接触】をトリガーに解除されるもの。
つまり、私とアーノルドがふたりでいる姿は、第三者に視認される可能性があるのだ。先程言った通り、根も葉もない噂を流されてはたまらない。例えば─。
『フレンツェル公爵家の長女、アグネス様は王太子殿下の【運命】だった。そして、フェリシア様の【運命】はアーノルド様だったのね!!』
と、美談にされるならまだいいほうだ。最悪なのは、
『フェリシア様ったら、アグネス様と王太子殿下の【運命】を受け入れられなかったのですって。自棄を起こして、アーノルド様の恋人のひとりになったらしいわよ』
……と、悪評を流されることだ。
そして、悲しいことにその可能性のほうが高い。見目もそれなり、ユニークスキルもパッとしないとくれば、私が王太子の婚約者であることに不満を覚える人も、まあそれは多い。これを機に、あることないこと言いふらすに決まっている。私はそっと周囲に視線を走らせる。
幸い、誰かが通りかかる様子はなさそうだった。
……ひとまず。
今後のことを考えなければならないし、記憶の整理も必要そうだ。
(今のところ記憶の混濁はなさそう……だけど)
やっぱり、気になるのは先程の男性。
抱いた疑問にふたたび向き合っていると、アーノルドが私の名を呼んだ。
「レディ・フェリシア?」
「あっ……ああ。失礼しました。考えることが多いものですから……。では、私はこれで。ごきげんよう、アーノルド卿」
にこやかに笑みを浮かべて、淑女の礼を取る。素っ気ない対応をされているにもかかわらず、アーノルドは穏やかに私を見つめていた。そして、彼は短く言った。
「私が、きみをもらってあげようか?」
「…………」
一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。笑顔のまま固まる私に、アーノルドが目を細めて微笑んだ。数々の女性を惑わす、蠱惑的な流し目だ。やはり、慣れているな、と場違いにも感じた。
「……はい?」
笑みを浮かべたまま、首を傾げる。さらりと、私の桃色の髪が一緒に揺れた。
☆
私は、アーノルドの提案を蹴った。身に付けているレース編みの手袋を差し出し、
「私では力不足のようですわ。この手袋が似合うご婦人を、お探しになってくださいませ」
と断ったのである。体のいい断り文句だ。私と彼では物事の考え方からして異なるし、いい関係を築けるとは思えない。
彼の言葉は、【貴族の娘】としての立場で言うなら、願ったり叶ったり、というものだ。諸手を挙げて受け入れるべき話であり、突っぱねるなど有り得ない。
この話をお父様にしたのなら、きっとお父様は早々に彼との婚約話を纏めてしまうだろう。
少し考えて、私はすぐに答えを出した。
(アーノルドと結婚……は嫌!!)
本能というのか、直感的というのか。とにかく嫌なものは嫌なのだ。助けてあげよう、という彼の態度からは、傲慢さが透けて見える。さながら彼は、釣竿を構えて魚を釣り上げようとしている釣り人のよう。
つまり、彼からは誠実さが見えてこないのだ。この期に及んで、私は相手の気持ちを望んでしまう。かなり、高望みをしている自覚はあった。
それでも、自身の感情を押し込め、責任と義務に圧殺され─『仕方ないから』という言葉で全てを諦めるのは、もっと嫌だった。
(アーノルドとの婚約を回避するには、他の人と婚約を結ぶ? 行き遅れになったら、お父様にも迷惑がかかるわよね……。社交界の人にも、なんて言われるかわからないし)
ああ、と私は強く思った。生まれ変わったら、異世界で。貴族の娘として生を受けたというのに─なんって、生きにくいのよこの世界は……!! これなら、前世のほうがよっぽど生きやすかった。少なくとも、結婚を強制されることはなかったもの。
(そういえば、前世も私、未婚だったものね〜……)
婚活しなきゃなぁ、とか思ってもいたけど。案外おひとり様も楽しくて、仕事にのめり込んで─気がついたら婚期を逃していた。
(それで……)
何歳で、私死んだのだっけ?? というか、死因は何だったかしら……。
(……思い出せない!!)
前世の記憶の最期を辿ろうにも、全く分からないのである。ぼんやりと、前世の人生で体験したこと、感じたことなんかは思い出せるのだけど。詳細を思い出そうとすると、途端それはぼやけてしまうのだ。
(老後の健康づくりのためにロッククライミング始めたり、親戚に『結婚しないの?』と聞かれた時に、『相手は結婚できない人なの(注:二次元キャラクターの話です)』と答え、それ以上、話を続けにくい雰囲気作りをしたこととかは、はっきり覚えているのに……!!)
しかも、その後、親戚内で、私が不倫していることになり、腫れ物を触るような扱いになったことまで、覚えているというのに……!! 無駄なことばかり覚えていて、肝心な部分は思い出せない。ため息を吐いた私は、そのまま城を出て馬車止めへと向かった。
まずは、お父様に報告しなければ。私とフェリックス様の婚約。そして、お姉様とフェリックス様の件。
(お姉様とフェリックス様は【運命】なのだから、あちらが優先されるわ。そしたら、私は─)
☆
フェリシアが去った回廊で、ひとり残されたアーノルドは含みのある微笑を浮かべた。
「……やっぱり面白いな、彼女」
発言も行動も、全て彼の斜め上をいく。だから、目が離せない。
手渡されたレース編みの手袋を見て、彼はそれに口付けを落とした。
「……必ず、私はきみを手に入れる。フェリシア。これは、宣戦布告じゃない。勝利の宣言だ」
なぜなら、手はすでに打ってある。彼女には届かない言葉を呟いて、アーノルドは彼女の手袋をコートのポケットへとしまった。フェリックスの【運命】がアグネスだと言うのなら─。
彼の【運命】は、フェリシアだと、相場は決まっている。運命など、どうとでもできる迷信だ。彼はそれを、端から信じていない。
☆
邸に戻るとすぐ、私はお父様のいる書斎を訪ねた。お父様は私の話を聞くと、鷹揚に頷き、言った。
「では、婚約は解消を前提に話を進めておく。今後のことは、殿下の意向を伺い、アグネスと相談することにしよう。お前は、パトリシアにそう説明しなさい」
お父様の言葉は端的だった。その言葉を聞いて、私は─。
(きっと、今までならお父様の言葉に少なからず傷ついていたわ)
だって、お父様が愛しているのはアグネスお姉様だけ。
パトリシア、とは私のお母様の名前。私と、お姉様は異母姉妹だ。お姉様のお母様はすでに故人で、彼女は長い間、お父様の愛人という立場にあった。彼女は、元は有名な歌姫だったそうだ。
【歌姫のジェニファー】と言えば、お父様の代では知らない人はいないほどの有名人であったそうな。儚くも美しい容姿に、蠱惑的な声音。月下で佇んでいるような繊細な美貌でありながら、その歌声は老若男女問わず、惑わす魅力があったそう。
彼女に魅せられた人々は多く、彼女は国内外の多くの紳士に声をかけられたそうだ。
そして、その大勢の中から、彼女を口説き落としたのが、私のお父様。私の父─当時はフレンツェル公爵子息だったお父様は、彼を知る人がみな驚くほどの熱量を以て、ジェニファーの元に通ったそうだ。私のお母様は、他国の王族と縁戚関係にある伯爵令嬢で、当然ながらお父様とは政略結婚だった。お父様とお母様の間に愛はない。
お母様は、お父様が長年愛人を囲っていたことを未だに許していないし、お父様はお父様で、そんなお母様を煙たがっている。どこの家でもよく聞くような話だ。
(お母様は……不憫だわ)
そして、私も。歌姫だったお姉様のお母様は、お姉様を出産してすぐ、亡くなられたという。元々、華奢で儚げなひとだったそうだから、出産に耐えられなかったのだろう。お姉様を見れば、彼女の母がどういった見目をしていたのかは、予想できた。恐らくお姉様は、彼女の母ジェニファーによく似ている。
お父様が、事ある毎にそう言うのだから。お父様が愛しているのは、歌姫のジェニファーと、彼女の忘れ形見であるお姉様だけ。私のことはどうでもよくて、私のお母様のことは、煙たがっている。
私は俯きながら、ぽつりと言葉を零した。
「……私にどう説明しろと仰せなのですか」
「……何?」
まさか、肯定以外の言葉が返ってくるとは思わなかったのだろう。
お父様が、ぴくりと眉を寄せ、私を見た。私が書斎に来て、王城であった出来事を説明して─ここに来てようやく、お父様は私の顔を見た。どうでもいいのだろう。
だから、私の今後については後回しで、今のお父様の頭にあるのは、お姉様のことだけ。
どうでもいいことで煩わせるな、とでも言わんばかりにお父様が背もたれに背を預けた。
「お前は説明もできないのか。王太子殿下の婚約者であったくせに?」
すでに、フェリックス様の婚約者であったことは過去の話にされてしまっているらしい。
私は、どんどんと、だんだんと、心が冷えていくのを感じた。今まで、私はお父様が怖かった。彼が私を愛してくれないから、ではない。無関心だからだ。
お父様は、私に一切興味が無い。期待されることもなければ、何かを望まれることもない。
ただ、問題事さえ起こさず、適当に生きていてくれれば、それでいいのだ。
そんなお父様が、私は怖かった。何も期待されていないことは、幼少の時にすでにわかっていた。それでも、幼い頃の私はお父様に認めてほしくて。認められたくて─。
やる気は空回りして、結果、お父様に氷のように冷たい目を向けられる。それは失望、というよりも鬱陶しい、といった眼差しだった。お父様のその目は、私の恐怖心を煽るのには十分だった。
(今になって、思うわ)
私は、お父様をじっと見つめた。子は親を選べない……とは言うけれど。どんな親でも、子供は親を必要としてしまう。認められたい、と、そう思ってしまう。
(……こんなひとに、認めてもらわなければならない人生って、何かしら)
このひとに、私の生き方を委ねるほどの価値があるのだろうか。
少なくとも、前世の記憶を思い出した今。私は、親という理由だけで彼に縋る気も、依存する気も全くなかった。前世の記憶を取り戻してから、私はふてぶてしさと図太さ、そして自分なりの価値観、というものを得たように思う。私の瞳は、きっと口よりも雄弁に私の感情を伝えていたのだろう。お父様がいきり立ち、椅子を蹴飛ばすようにしながら立ち上がった。
「何だ、その目は!! 言いたいことがあるなら、言えばいいだろう!! お前は、本当に母親そっくりだな……!!」
そして、ますます失言を重ねるのだ。
「もういい! 出ていけ!!」
それ以上対話する時間が無駄、とでも言うようにお父様が手を振るう。それをただ無表情で見つめながら、私はお父様に言った。彼にとっての、真実を。
「私が言いたいことも、お母様が言いたいことも、お父様はとっくにご存じなのではありませんか」
それなのに、お父様は目を逸らし続けている。見なければ、無いもの。見なければ、存在しないものだと、そう思い込んでいるように。彼にとって、私とお母様は【都合の悪いもの】であり、存在を直視したくないのだと思う。
受け入れてしまったら、彼は認めるしかなくなってしまうから。今までの、私とお母様への態度が、いかにひどいものであったかを。冷えきった家族関係を生み出したのは、ほかならぬ父であるということを。それらを、認めることになってしまう。
プライドの高い父には、できないだろう。だから、私とお母様を排斥する。
彼の、彼にとっての都合のいい世界を維持するために。
「お母様への説明と、説得は、お父様がなさってください。それは、お父様がなさるべきことです」
淡々と、一切の感情を乗せずに呟いた。
それから私は、ドレスの裾を摘んで淑女の礼を取り、踵を返した。
「待ちなさい!! フェリシア!!」
ドンッ、と机が勢いよく叩かれる。
振り向くと、お父様は顔を真っ赤に染めながら私を見ていた。
「なんだその物言いは!? その目つきはなんだ!! お前は、淑女教育で何を学んできた!!」
「私は、今までの淑女教育で、『唯唯諾諾と親に従え』と習ってきました。ですが、私はお父様の操り人形になる気も、都合のいい駒になる気もないのです。……お父様」
私の物言いに、さらに腹が立ったのだろう。
彼がなにか言おうと口を開くより先に、私は言った。
「私も、お母様も。感情を持たない人形ではありません。ひとりの人間で、考える頭と、感じる心がございます。お父様は、ご存じなかったようですが」
お父様にとっては、さながら手持ちの駒が突然反抗したようにしか見えないだろう。暴力的に言うことを聞かされてはたまらない。そう思った私は、そこでようやく笑みを浮かべた。
そこそこ可愛い私だからこそできる、邪気のない笑みだ。
「誤解なさらないでくださいませ。私は、お姉様とフェリックス様を祝福しております。我が国の王太子殿下に【運命】が現れたのですもの。私だって、もちろんおめでたいことだと思っておりますわ。……ですから、私も私で、自身の幸せというものを探したくなりましたの」
それは、額面通りに受け取るなら『お姉様とフェリックス様のように、私も【運命】を探したくなった』という意味になる。
もちろん、私の真意とは異なるのだけど。私も、私の幸せというものを探してみたくなった。事実だ。だけど私の幸せは、必ずしも【運命】の人がもたらしてくれるものではない。そもそも、結婚とか、恋愛とか、そういう枠組みに囚われることなく─私の、幸福を見つけたいと、そう思ったのだ。
幸せは、与えられるものではなく、自分から獲りに行くもの。少なくとも、私は与えられるかもわからないそれをただひたすら待ち続ける気にはなれなかった。
☆
書斎を出て、自室に向かう途中、名前を呼ばれた。
「フェリシア」
お姉様はまだ城から戻ってきてないようだ。
……となると、この邸で私を『お嬢様』ではなく、名前で呼ぶ人はひとりしかいない。私は、ゆっくりと振り返った。そこには、私と同じ桃色の髪をした女性が佇んでいた。外出の予定がなく、部屋にいたのだろう。肩には薄手のショールをかけ、髪をひとつに結っている。
女性にしては長身。彼女こそが、私の母親であり、フレンツェル公爵夫人。パトリシア・フレンツェル。
「お母様」
「戻ってきたのですね。殿下のお話はどうでしたか」
淡々と、彼女は私に尋ねた。お母様が聞きたがっているのは、私とフェリックス様の婚約がどうなったのか、ということだろう。お母様にとって、私とフェリックス様の婚約は、彼女の自尊心を満たすものだ。婚約が解消される……となったら、お母様は相当取り乱すのだろう、と私は思った。お母様は、生粋の貴族だ。
だからこそ、お父様の舞台通いが明るみに出て、愛人の存在を知った時でさえ、声を荒らげたり悋気を見せるようなことはしなかったという。貴族の娘として、品位を欠く行いはできない、と彼女は思っていたのだ。
だから、常に氷のような眼差しでお父様を静かに責めながらも、口では何も言わない。今も、お母様はジェニファーのことで胸にわだかまりを抱えている。お母様は、お父様の前では何も言わないけど……娘の前では稀に、その本音をこぼす。
(お母様にとって、アグネスお姉様は、お父様が浮気をした証拠にほかならない……)
お母様はお姉様を心底嫌悪している。今までお母様がお姉様と顔を合わせた回数は極わずか。それも、どうしても顔を合わせざるを得ない状況の時のみ。
例えば、お姉様がその病弱が理由で社交界デビューを断念するとなった時。
お母様は、それで問題ないかとお姉様に意志を確認しにいった。
娘の社交界デビューを取り仕切るのは、公爵夫人であるお母様の役割だからだ。
お姉様は、お母様が自身を嫌っていることを知っているからいつも以上に気を遣い、結果的に体調が悪化した。お父様はお母様を責め、夫婦の仲はさらに冷え切った。氷の貴婦人、とはお母様の社交界での二つ名だ。にこりとも笑いもしない。
なまじ美人だから、常に無表情のお母様はかなり迫力がある。私は、数秒逡巡したものの、先程お父様と交わした会話の内容を素直に口にすることにした。フェリックス様との婚約は解消されそうなこと。お姉様とフェリックス様が、改めて婚約を結ぶことになりそうなこと。それを伝えると、お母様は眉を寄せた。
「何ですって? あなたは、それでいいのですか?」
「良いも何も、お父様と陛下が決めることですから。それに、お姉様はフェリックス様の【運命】─」
「そんな上辺だけの話などどうでもいいのです」
お母様は、吐き捨てるように言った。
「【運命】だから、何です? 【運命】とは、自身の感情も理性も、全て失ってしまうものなのですか? そうなのであれば、それはもはや祝福ではなく、呪いじゃない」
「……お母様。ほかの者に聞かれたら大変なことになります」
【運命の人】制度。
それは、ツァオベラー国が【魔法使いの国】と呼ばれているからこそ、浸透しているもの。
「ひとつ。ツァオベラー国は優秀な魔法使いの助力によって建国された国である」
それは、ツァオベラーに住む人間なら、誰しもが幼い頃に聞く伝承。
「ふたつ。優秀な魔法使いは度々現れる。彼、あるいは彼女には、【運命】が存在する」
「みっつ。【運命】とは魔法使いの半身であり、神の祝福である……だったわね」
最後の一文を、お母様が紡いだ。
お母様は、やはり静かな声で、落ち着いた瞳で私を見ていた。
「フェリシア、よく聞きなさい。王太子殿下とあの娘に【運命】の紋様が現れたことは私も聞き及んでいます。ですが、だからといって現在の婚約者であるあなたを一方的に排除するのは、本当に神の思し召しなのですか?」
「お母様─」
「私には、【運命の人】制度を都合よく使っているようにしか、見えませんけれどね。あの紋様とやらも水をかければ案外、落ちるのではない?」
お母様は不遜にもそんなことを言った。いつもと同じように落ち着いて見える彼女だったけど、もしかしたら相当腹に据えかねているのかもしれない。お母様の言い分ももっともだ。前世の記憶を取り戻した今だからこそ、私も強くそう思う。全く同感だ。
だけど、だからと言ってそれが通用する世界ではないのだ、この国は。
「私は、認めませんよ。王太子殿下の婚約者はあなたです、フェリシア。あんな小娘に負けてはなりません」
「……お母様、私は」
そもそも、フェリックス様と結婚したくありません……!! 皆、なぜ私の感情を置き去りにするのだろう。今回の件で、やっぱり婚約は続行で! と言われて私が「ワーイ!」って喜ぶように見えるのかしら?? というか、お母様が私の立場だったら喜ばないわよね!?
絶対、嬉しくないわよね!? だって、フェリックス様の心はお姉様にあるのよ? それなのにフェリックス様と結婚とか……地獄すぎない??
そう返答しようとした時、ちょうど執事が私たちを探しに来た。どうやら、お父様がお母様を呼んでいるようだ。私とフェリックス様の婚約の件を話すつもりなのだろう。意外と動きが早い。お母様は執事から用件を聞くと、その瞳をさらに凍りつかせた。絶対零度の視線を受けた執事が顔を青ざめさせている。私はお母様に挨拶をすると、その場を後にした。
(フェリックス様との婚約は解消するとして。その後のことがやっぱり大事よね?)
このままだと間違いなく私は、アーノルドと婚約することになる。そうなる前に、手を打たないと……。そう考えた私は、手当たり次第に歴史書を読み漁ることにした。
過去の貴族女性の生き方を調べてみれば、もしかしたらそれがヒントになるかもしれないと思ったのだ。邸の蔵書室でいくつか本を見繕い、早速読んでみる。かなり珍しいケースだが、離縁した未亡人が文官になったり、女性が爵位を継承した例もあるようだ。
強かに、逞しく生きたであろう女性の生き様を綴った文章を、指でなぞる。
(私にも……できるかしら?)
文献を漁って、少しだけ自分の人生においてのヒントを得た気がした。
☆
後日、思った以上に早くフェリックス様から呼び出しを受けた。王族専用区域の庭の東屋。私はフェリックス様と向き合うようにラウンドテーブルを挟み、座っていた。
(こんな場所に、東屋なんてあったかしら……)
疑問に思った私は、すぐに答えを得た。東屋のすぐ近くには、大きなマグノリアの木があったからだ。
ちょうど今は、マグノリアの開花時期。風が吹く度に、白い花弁がぽとりぽとり、と落ちていく。まるで、お姉様とフェリックス様が出会った時のようだ、と私は思った。
そして、彼は意図してそれを再現しているのだろう、とも。
だからこそ、このマグノリアの木の傍に、東屋を造らせたのだ。
(【運命】、というのはそれ程までに……)
いや、彼らの場合は一目惚れだった、絶対に。だけどその一目惚れこそが【運命】だった証拠……と言われたら、私はもう何を言えばいいかわからない。卵が先か、鶏が先か、というように答えの見えない問題だからだ。テーブルの上に白い花がぽとりと落ちた。
さながらそれは、花のクロスのよう。
そんなことを考えながら、私は本題を待った。
『婚約を解消しよう』
彼はそう言うのだろうと思った。その言葉に、私は従うつもりだったのだ。何せ、逆らう理由がない。だけど、実際に彼に言われたのは─。
「あなたは王妃として、あなたの姉……第二妃となる彼女を、助けてあげてほしい」
(…………ん??)
今、フェリックス様は、何て?
(王妃として……お姉様を?)
私の聞き間違いでなければ、彼は今、王妃としてお姉様を助けてあげて─と、そう言ったように聞こえたけれど。流石に。流石に……聞き間違いよね!? 私は引きつった笑みを浮かべながらも、フェリックス様に尋ねた。
「……失礼ですが、今、なんと?」
「私も、そこまで薄情じゃない」
いけない、会話が成り立たない。フェリックス様は、物思いに沈んだ様子で、組んだ手の上に額を乗せた。苦悩しているのがありありと伝わってくる。
「フェリシア。私は、あなたを愛することはできなかったけど、あなたを嫌いになったわけではないんだ」
なんか、言ってる……。もはや私は、このひととの意思疎通を諦めた。すごく嫌な予感がする。なんだ、この自分に酔っているひとは。【運命】に翻弄される僕……!! みたいなオーラを出しているひとは。彼の真剣さとは裏腹に、私はどんどん心が冷えていく。今、フェリックス様が俯いていて助かった。
でなければ、きっと彼は気づいただろう。今の私が、ひどく冷たい目をしていることに。
さながら、先日の、お父様とお話しした時のよう。
『お前は、本当に母親そっくりだな……!!』
(……お母様にそっくり、ね)
ふと、なぜか今、お父様の言葉を思い出した。……私も、お母様のようになってしまうのだろうか。夫に【いないもの】のように扱われる日々。お父様は、お母様に対して敵意も悪意もないけれど、関心もない。まるで、空気のように存在そのものを無視される毎日。夫の恋人の娘を一方的に敵視し、だけど表立っては何も出来ない。毅然と振る舞っている振りをして、なけなしの自尊心を必死に守る毎日。きっと、ひどく心がすり減るはずだ。
ひどく、疲れるはずだ。お母様は、怯えている。いつか、夫に見切りをつけられてしまうことに。それでも、お母様はお父様を許せない。
だから、お母様はお父様に無言の抗議を長年続けている。そんな葛藤に、お母様はずっと苦しんでいる。全てを手放すこともできず、かといって受け入れることもできない。そんなお母様のように、私もなる─。その想像に、私はゾッとした。その未来は、あまりにも容易に描けたからだ。
(……嫌だ)
ハッキリ、思った。ひとの恋愛に巻き込まれて、私が不遇な身の上になるのも。
負の感情をぶつけあって、結果、苦しむのも……どちらも、嫌。それなら、この婚約は必ず解消しなければならない。この婚約の未来。私とフェリックス様の結婚に、私の幸せはない。
あまりにも安易に描けた未来予想図に愕然としていると、【可哀想な僕】タイムが終了したのか、フェリックス様が顔を上げた。
「フェリシア?」
奇妙なものを見るような声で名を呼ばれ、私はハッとした。私も顔を上げる。視線が交わる。今の私はよほど、顔が青ざめているのだろう。フェリックス様が眉を寄せ、言った。
「……体調が悪い? すまない。やはり、あなたには受け入れ難い話だったかな。でも、わかってほしい。私の【運命】は、アグネスなんだ」
運命、運命、とそればかり繰り返す私の婚約者。思わず、カップの中の紅茶を引っ被せたくなった。その衝動を、懸命にこらえる。
(耐えろ……耐えるのよ、大丈夫。こんなの、前世で対応したクレーマーに比べたら全然マシだわ。人格否定とか殺人予告とかはしてこないし)
前世で対応したクレーマー四天王を思い出す。店内で転んだからと医療費と慰謝料を請求しようとしてきた汚客様(どう見てもご自身の不注意&擦り傷)。
レジ先で水分補給していたら「サボってる!」とクレームを入れてきた汚客様(夏場で数時間水飲むなって言うの?? 熱中症で死ぬわよ)。
完食しきってから「ハンバーグ生だったんだけど!!」と呼び出して、延々怒鳴った汚客様(お前完食してるじゃん)……!!
そしてハッ!! と私はその時、思い出した。前世の記憶で、新たな事実を。
(私、【声が不快】って理由で「仕事やめろ」って言われたことあったわ……!!)
天啓のように、私は思い出した。
あれは大学生の頃、オペレーターのバイトをしていた時のことだ。私の声がひどく耳障りで苛立つから仕事をやめろと言われたのだった。仕事向いてないんじゃない? とも言われ、転職を勧められた。
(社会人経験が圧倒的に不足していた私はどう返答すればいいかわからなくて、結果、『貴重なご意見をありがとうございます』って返しちゃったのよね……。お互いに『???』ってなったのだったわ……)
前世で対応したひどいクレームの内容を思い出していくと、だんだん、気持ちが落ち着いていった。大丈夫、少なくともフェリックス様は私の人格批判をしないし、誹謗中傷もしてこないし、殺人予告も恐喝もしてこない……。悪質クレーマーよりはよっぽどマシ、うん。
そう思い込むことで、この衝動をどうにか抑えることに成功した。
フェリックス様が、私を見て苦笑した。
「こんな時でも、あなたはいつもと変わらないんだな」
「─」
目を見開いた。
(だって、感情的になっても、良いことなんて無いじゃない)
『お前は、本当に母親そっくりだな……!!』
また、お父様の声が聞こえてくる。
「あなたも知っている通り、アグネスは病弱だ。彼女に王妃は務まらない」
「…………」
じゃあ、どうすればいいの。感情に任せて、泣き喚けば良いの? それで、何を得られると言うの。むしろ、失うもののほうが多いじゃない。私にだって、ちっぽけで些細ではあるけれど、私なりのプライドがあるのよ。好きでもない男相手に、泣いて縋るなんて、したくない。
そうやって同情を得て勝ち取った立場に、何の価値があるというの。何になるというの。
……私は、どうしたらいいの?
ぎゅっと、膝の上に置いた手を強く握る。思わず俯いた私の耳に、私の婚約者の言葉が無情に響いた。
「だから、フェリシア。あなたが、彼女を支えてあげてほしいんだ」
王妃として、第二妃のお姉様を支える。面倒な公務は私に押し付けて、フェリックス様はお姉様と愛を育みたいのだろう。私は、どこまでいっても都合のいい人形でしかない。
「フェリシア?」
反応の鈍い私を怪訝に思ったのか、フェリックス様が私を呼んだ。その瞬間、単純明快な感情が私の胸の内を駆け抜けた。
王妃となって、第二妃のお姉様を支える─?
(え、絶対嫌なんですけど……?)
彼に名を呼ばれた瞬間、私は理解した。ここが、きっと私の人生の分岐点だ。ここで判断を誤ったら、私の未来は暗澹たるものとなるだろう。
笑い合うお姉様とフェリックス様。もしかしたらお姉様はお子に恵まれるかもしれない。幸せな家庭を、私は陰から見ることになるだろう。私にも……もしかしたら、子が生まれるかもしれない。そうしたら、その子はきっと、深く悩むことになるはずだ。
『なぜ、自分は父親に愛されないのだろう?』と。
まるで、幼い頃の私のように。その気持ちが、私には痛いほど、よくわかる。子は親を求めてしまうものだから。きっと、私の子も、父を求めてしまう。
父の関心と、愛を、求めてしまう。得られない現実に悲しみを、愛ある家庭を目の当たりにして、絶望を覚えることになるだろう。その気持ちが私にはよくわかる。
わかるからこそ。
絶対にそんな未来は訪れてほしくないのだ。それに─王妃として、第二妃のお姉様を支える、なんて。ひとを馬鹿にしているとしか思えない。フェリックス様も、お父様も、お母様も。
もしかして私には感情がないとでも思っていらっしゃる?
フェリシアは感情を持たない人形だから、どのように扱ってもいい、と? そう思っているのなら、彼らは相当、私のことを愚鈍な人間だと思っているのだろう。悲観的な感情に襲われて動揺していたが、それこそ、感情的になっている場合ではない。なにせ、ここで判断を誤れば、私に明るい未来はないのだから。その事実に、少しずつ私は冷静さを取り戻していった。
そして、私は顔を上げてにこりと、微笑んだ。
「お断りします」
「は……?」
唖然とした様子で、フェリックス様が私を見た。その時、一際強く、風が吹く。また、白の花弁が舞う。ちらちらと舞い落ちるそれは、まるで粉雪のよう。とても美しい光景の中で、私はにっこりと笑みを浮かべて言った。
「あなた方の幸福に、私を巻き込まないでください」
自分の幸福を守るためなら、誰かの幸せを踏みにじっても良いと、そう思っているのだろうか。
確かに彼は、ツァオベラー国の王族で、王太子という立場にある。
それくらいのワガママは許されてしかるべきなのかもしれない。
だけど、だけど私は─。そんな他人の幸福に巻き込まれて、踏みつけにされるような人生は、送りたくなかった。そんな人生を送るくらいなら、いっそ、私のほうから。
私の言葉に、フェリックス様が動揺した様子を見せた。
「……何を言ってるのかな。これは、あなたのためでもある。私は、あなたを切り捨てたくはないんだ」
「切り捨てたくはない?」
その言葉に、思わず笑いそうになってしまった。
どこまでも傲岸不遜で、驕り高ぶった、婚約者に。
「本心を仰ってくださいませ、フェリックス様。私たちは、今はまだ、婚約関係にあるのですもの。今くらい、本音で話していただけませんか?」
「何を……」
不敬であることは承知の上で、私は彼の言葉をさえぎった。
「はっきり、仰ったらいかがですか。都合のいい女を求めているだけ、と。そちらのほうが、よっぽど潔いというものですわ」
彼は、王妃業をこなせる都合のいい女を探しているのだ。駒のように使っても、文句を言わなそうな、そんな女を。だというのに、彼は『フェリシアのため』と、まるで私を想っているように言う。私を気遣っているからこその提案なのだと、そういうように。
実際は─自分のためなのに。フェリックス様は、眉を寄せて言った。
「……どうして、そんな言い方をする? 拗ねているのか?」
今度は、私が目を見開く番だった。
(は…………はぁあああ!?)
拗ねている!?!? 言うに事欠いて、何を仰ってるんですか新手のギャグですか、そうなんですの〜〜。
……なわけ、ない!! 表情筋が引き攣りそうになりながら、私は目を細めて笑いかけた。
「見て、おわかりいただけませんか。私は嫌悪しているのです。あなた方の、独善的な態度を」
「独善的? あなたは私の【運命】を否定するというの……」
「【運命】を祝福することは、すなわち理不尽を受け入れることではありませんわ。先程も、お伝えしたはずです。あなた方の幸福に、私を巻き込まないでほしい、と」
「あなたは、幸福のおすそ分けを拒否するというの……」
(恐ろしいくらい話が伝わらない……)
宇宙人と話しているような心持ちになってきた私は、混乱に頭がクラクラした。
だけど沈黙すれば、良いように受け取られるに決まっている。
だから、いっそのこと話を変える。
「あなたは、私を愛せないと仰りましたね。……奇遇ですね、私も、全く同じことを思っておりました」
「……フェリシア?」
彼が、怪訝そうに私を見てくる。私は、顔を上げた。マグノリアの花が、風に吹かれて頭上から降ってくる。
そもそも、お姉様との出会いを再現したような東屋に現在の婚約者を連れてくること自体、有り得ない。無神経すぎる。
「私も、あなたを愛せません。私はお姉様とあなたの幸せを邪魔する気はありませんし、関わる気もないのです。どうか、私のことは放っておいてください」
「……困ったね」
フェリックス様が、弱ったように眉を下げた。足を組み、ため息を吐く。まるで、私が悪いかのような態度。以前なら、彼のこうした態度ひとつひとつを気にしていただろう。
だけど今の私は、
(このひと、この期に及んで何でこんなに偉そうなのかしら……)
という感情しか出てこない。
「フェリシア。あなたは、拗ねているんでしょう。寂しくなってしまった? でも、安心して。私も、アグネスも、あなたをひとりぼっちに、除け者にする気は無いんだ」
「…………」
(ん?…………んん??)
どうしよう。やっぱり話が通じる気がしない。弱った。これは悪質なクレーマーと同じだわ……。
「元々、あなたが私の婚約者に決まった理由は、あなたが【魔法使いの生まれ変わり】だと……思われていたからだ。実際は、アグネスだったが」
フェリックス様が淡々と、私たちの婚約の経緯を口にした。ツァオベラー国は、魔法使いの国。そして、この国には昔から伝わる伝承がある。
『ひとつ。ツァオベラー国は優秀な魔法使いの助力によって建国された国である。
ふたつ。優秀な魔法使いは度々現れる。彼、あるいは彼女には、【運命】が存在する。
みっつ。【運命】とは魔法使いの半身である。それは神の祝福である』
今から十八年前。【預言】の特異魔法を発現させた神官がいた。彼は、その力で神託を受けた。
『フレンツェル公爵家のご令嬢は、魔法使いの生まれ変わりとして目覚めるでしょう』
彼は、そう預言をもたらしたという。神託を授かる行為は、相当の体力や気力、魔力といったあらゆるものを消耗するらしい。
その後、すぐ神官は亡くなってしまったそうだ。十八年前、すでにフレンツェル公爵家にはふたりの娘がいた。ひとりは、愛人の娘であるアグネス・フレンツェル。ひとりは、正妻の娘であるフェリシア・フレンツェル。すぐに、魔法使いの生まれ変わりは私だろう、と考えられた。
なぜなら、お姉様は生まれつき病弱で、特異魔法を持たない。だから、消去法でフェリシアこそが魔法使いの生まれ変わりなのだと信じられたのだ。
(……だけど、私の特異魔法はものすごい地味な【気配遮断】)
魔法使いの生まれ変わりなら、きっとすさまじい魔法が使えるはずだ。魔力量も桁外れなはず。それなのに─私の特異魔法は、あまりにも地味すぎる【気配遮断】。魔力量も極々、平均的。
周囲の人々の落胆は、相当なものだったはずだ。私は、魔法使いの生まれ変わりにしては、あまりに平凡すぎる。それでも、神託がある以上、魔法使いの生まれ変わりは私だと、今まで考えられてきた。
─お姉様に、フェリックス様と揃いの紋様が現れるまでは。【運命】を知らせる揃いの紋様は、そう滅多に現れるものではない。むしろ、迷信とまで言われていたほどに、前例がない。預言の特異魔法を使う神官が受けた神託は、ただこれだけ。
『フレンツェル公爵家のご令嬢は、魔法使いの生まれ変わりとして目覚めるでしょう』
─【運命】を知らせる紋様がお姉様に現れたことで人々の考えは変わった。
『フェリシア・フレンツェルではなく……本当の【魔法使いの生まれ変わり】はアグネス・フレンツェルだったのだ』と─。
フェリックス様と婚約するに至った経緯を思い出していると、彼が苦笑して言った。
「それでも、私はあなたに情がないわけじゃない。今までの思い出を、捨てるつもりはないんだ」
彼は、私を見つめて言った。
「怖がらなくていい。陛下の許可もいただいている。それに何より、あなただってアグネスが好きでしょう?」
「……だから、私に犠牲になれ、と?」
「犠牲なんて、ひどいな。そんな言い方しなくてもいいじゃないか。あなたは、貴族令嬢としての瑕疵を得ることもなく、大好きな姉の傍にいられる。みんな幸せになれるだろう」
「お断りしているはずです。私の幸せは、私が決めます」
「だからさ……」
利かん気の子を相手にするように、うんざりとした様子でフェリックス様が言った。
「それは、あなたが怒っているからでしょう。いい加減、機嫌を直してくれないかな。アグネスが気にする」
アグネス、アグネス……って。
お姉様のことばかりで、私の気持ちなんて全く考えていない。
(……だめだわ)
このひとと、話し合いはできない。交渉は決裂。もう、この場に留まる理由もない。
「もう、結構です」
私は席を立った。このひとにとって、結局フェリシアという人間は、どのようにでもできる、制御できる生き物なのだろう。さながらそれは、自身が手がけたロボットのよう。
ロボットは、技術者が入力した信号通りにしか動かない。フェリックス様にとって、私はそういう存在なのだろう。どうとでもできる。どうにでもできる。……端から、私のことを対等の存在とは見ていなかったのだ。
「フェリシア?」
名前を呼ばれた。だから、私は笑みを浮かべて言った。
「私は、あなたとお姉様の幸せを願っております。どうか、お幸せに」
形だけの祝福の言葉を、贈って。私は、フェリックス様と結婚する気はない。
今までも、その気はなかったけど、今回の話し合いを通して、その気持ちはさらに固く強いものとなった。彼と結婚した日には、間違いなく私は不幸になる。だから、私は─。
(まずは、お父様を説得する)
固い決意を抱いて、私はロイヤルガーデンを後にした。
☆
その、帰り─。
「フェリシア!! いた…………!!」
聞き覚えのある声が聞こえてきて、思わず私は足を止めた。
(いや……まさかね!?)
涼やかで軽やかで、甘い声。ふんわりとした、優しげな声。急いでいたのか、呼吸が乱れている。息が上がった様子で、彼女は私の名を呼んだ。
……とてつもなく嫌な予感がする。
そして、得てしてそういった予感は当たってしまうのだ。嫌な予感は、的中した。振り向いた先には、先程の話の中心人物であった、お姉様が立っていた。走ったのだろう。息が切れている。肩を大きく上下させ、その頬は赤く染まっていた。
……デジャブ?? なんか、前にもこんなことがあったような……。思わず、遠い目になった私に、お姉様が掠れた声で言った。
「フェリシアっ……。お願い、話を聞いて。私、私はね……!?」
「お姉様……。ここでは目立ちます。邸に戻りましょう?」
ここは、王城の廊下。王族専用区域内が近いので人通りはないが、フェリックス様が通りかかる可能性は十分にあった。私たちのいたロイヤルガーデンは、一階の北の回廊の先にある。
そしてここは、二階の王族専用区域と公共区域の境目となる。
もし、フェリックス様がこの場に現れたら……。先日のように大変面倒な状況になるだろうことは想像に難くない。それに、この下は長い階段だ。万が一、お姉様がよろけたりして落ちたら─。最悪な想像が頭に過った私は、ゾッとした。
(ひとまず、お姉様を安全な場所まで連れていかないと……)
それに、姉妹で揉めている様子を他の貴族に見られたら、どんな噂を立てられるかわかったものではない。頭の痛い問題がいくつも、助走をつけて走り寄ってくる。勘弁して欲しい。私は思わずため息がこぼれそうになった。
お姉様を馬車止めまで連れていくことにした私は、そっと彼女の背を押して促そうとした。
だけど─。パシッ、と軽い音がする。お姉様は弱々しい力ながらも、私の手を振り払ったのだ。彼女は、震える声で言った。
「フェリックスと何のお話をしたの……!? ねえ、フェリシア……!!」
ぽろぽろと、水晶のような涙を零しながら、お姉様は苦しげに私に言った。
(─フェリックス……ね)
先日も、少し気になったのだ。お姉様は、もしかして忘れてしまったのだろうか?
たとえ、彼女がフェリックス様の【運命】なのだとしても。彼の現在の婚約者は私……なのだけど。嫉妬とか、そういうのではなくて。私の存在が軽んじられているように思えるのだ。
(……みんな、自分勝手だわ)
お姉様は自分の恋に必死だし、フェリックス様は、自分の恋を守ることに執心している。
お父様は、お姉様のことしか頭にない。お母様は、自分のことだけ考えている。
(みんな、自分のことばかり……)
こんな環境で、どうして私ばかりが頑張らなければならないのかしら……。思わず、諦観交じりにそう考えたところで、お姉様が嗚咽をもらした。それにため息を吐いて、私はお姉様の背をさすろうとして。
「興奮してはいけませんわ。お体に障りま─」
その言葉は、最後まで言いきれなかった。お姉様に、手荒く手を叩き落とされたからだ。
「うるさい……!! うるさい、うるさい!!」
お姉様の可愛らしい声が、あたりに響く。
だけどお姉様は元々の声量がないので、その声はとても小さなものだった。
それでもお姉様は必死に叫ぶと、涙交じりに私を睨みつけてきた。
「フェリシアはいいわよね……! 好きな人と、結婚できるもの! 好きな人の一番の妻になれるのだもの! あなたには、健康な体があって、お父様もお母様もいる……!!」
思わず、驚きに目を見開く。お姉様は泣きじゃくりながら、私を責めたてた。
「ずるい。ずるいわ、フェリシア……!!」
「お姉様、」
私は、何をいえばいいか分からなかった。こんなに大声を出して取り乱す彼女を見たのも初めてだったし、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
だから─反応が遅れたのだ。
「あなたも、あなただって、全部失っちゃえばいいのに……!!」
掠れた、お姉様の細い声。可愛らしい声で嗚咽をもらしながら、お姉様が私の肩を─力いっぱい、押した。バランスを崩した私は、たたらを踏んで─足を下ろしたその先に、床はなかった。
「え……」
思い出すのは、長い階段。お姉様が落ちては危ないからと、私は彼女をここから離そうと誘導しようとしていたのだ。その階段で、私は、
(落ち─!!)
目を見開いた。視界に、泣きじゃくるお姉様の姿が見えた。思わず、手を伸ばす。
だけどそれは何も掴まない。ふわりと体が浮いて、そのまま私は背中から転落した。
